「国の繁盛は貧民を増す」大富豪渋沢栄一はなぜ「養育院」を援助しつづけたのか/1
数多くの企業・組織の役職に就いた渋沢が生涯で最も長くその座に就いたのは、明治初期に東京に設立された救貧施設である養育院の院長だ。
大蔵省を辞めて間もないころから死去するまで50年以上にわたり、養育院の維持・拡大に尽力した。
渋沢とて初めから慈善家だったわけではない。養育院の初代院長ではあるが、設立には携わっていない。
「渋沢は講演で養育院院長に就いた経緯を『(東京府)知事とたまたま縁があった』と述べている。
知事は元幕臣の大久保一翁(いちおう)(忠寛)という人物で、実は渋沢とは縁が深い」。
こう解説するのは、養育院を前身とする地方独立行政法人「東京都健康長寿医療センター」(東京・板橋区)顧問の稲松孝思さんだ。医師として勤務しながら養育院の歴史を研究してきた。
「七分積金」の使い道
養育院の成り立ちは、江戸時代に江戸の町民が蓄えた基金「七分積金(しちぶつみきん)」と、大久保が幕臣時代から描いていた西洋式の医療・福祉施設の構想が結びついたものだ。
渋沢は七分積金と大久保の双方にかかわりがあった。
七分積金とは、1791(寛政3)年、天明の飢饉(ききん)の後に老中に就いた松平定信が江戸の町の困窮者救済のために設けた積立基金制度だ。
地主・家主たちが町の運営費として拠出する町会費を節約させ、その節約分の7割を自治組織である町会所に積み立て、幕府の資金も足して火災や飢饉の時に困窮者に米や資金を配った。
1872(明治5)年、七分積金は大久保が知事に就いた東京府に所管が移り、実業家からなる営繕会議所(のちの東京商工会議所)が管理することとなった。
太政大臣の月給が800円の時代に67万円と巨額の財源は、道路や橋、水道の新設・修理に向けられた。
困窮者の救済費のはずだった七分積金をインフラ整備の費用に向けるよう促したのは大蔵省のナンバー2だった井上馨だ。
渋沢は当時、大蔵省で井上の右腕だった。
日本が近代国家の仲間入りをするには首都のインフラ整備は急務だが、政府も東京府も資金がなかった。
府知事の大久保は、会議所に本来目的である救貧策はどうするのかと尋ねた。
各藩の武士が去った町は商売が廃れ、ホームレスがあふれていた。大久保は幕臣時代に西洋式の救貧施設の知識を洋書で学び、幕府に「病幼院」設立の意見書を出したこともある。
会議所は大久保の意向を受け、病人、老人、貧しい子どもの保護施設の設置や失業対策事業を含む救貧3策を示した。
ロシア皇族来日を前にしたホームレスの臨時収容を経て、73年に養育院の施設が東京・上野に完成した。
同年に大蔵省を退官し、第一国立銀行の経営に奮闘していた渋沢は74年、大久保から会議所での七分積金を管理する役割を任される。
既に資金は底を突きつつあり、渋沢は七分積金に伴う貸し付け担保の土地を売却して47万円を確保。
この年に会議所の事業が府に移管されて以降、養育院などの運営を担った。
72年から76年にかけての会議所の支出内訳をみると、土木費42%、ガス事業費21%などの一方、養育院は5%だった。
渋沢の大久保との縁は、渋沢が江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜に仕えていた時代にさかのぼる。
大久保は江戸城の無血開城に携わった後、静岡で徳川藩の発足に尽力した。
渋沢は1868(明治元)年に慶喜の弟に随行した渡欧使節団から戻り、静岡に蟄居(ちっきょ)する慶喜へ報告に訪れた。
このとき大久保は初めて渋沢に会った。
渋沢が使節団の会計庶務係として残余金の扱いについて大久保に意見を求めた手紙が残っている。
手紙を発見した稲松さんは「幕府の海外視察は費用が足りなくなると請求し、余れば懐に入れるのが常だったようだが、渋沢は現地で運用してもうけたうえ、公正に報告した。
その働きぶりが大久保から高い評価を受けたのだろう」と話す。
大久保は、藩が明治政府から貸し付けられた太政官札の運用を渋沢に任せ、渋沢は商人の資金を合わせた「合本(がっぽん)」組織として、銀行と商社を兼ね合わせた商法会所を設立する。
明治政府への出仕を後押ししたのも大久保だった。
存続の危機に寄付集め
渋沢が府の税金で運営するようになった養育院は、大久保が府知事を退任後、存続の危機に立たされる。
府議会で養育院の廃止論が巻き起こったのだ。
渋沢は存続を訴えたが「税金で貧しい人を養えば、怠け者をつくる」との声は大きく、85年には支出が止められた。
渋沢は社交場として使われていた鹿鳴館(ろくめいかん)でバザーを開いたり、財界人から寄付を募ったりして、養育院の運営費を賄った。
七分積金の本来の使い道として、大久保から託された養育院を潰すわけにはいかないとの思いが突き動かしたのだろう。
渋沢による公営化の建議が通り、養育院が東京市営に移ったのは5年後のことだった。
その後も渋沢は寄付を募り、運用して運営費に加えた。
養育院は孤児の養育、不良少年の教育、身寄りのない高齢者の保護などの目的ごとに施設を増やした。
人々から少しずつ寄付金を集めて慈善事業を成り立たせる手法もまた、渋沢の“合本”主義の表れと言えるのではないか。
渋沢の福祉観は時代とともに変わった。
養育院の廃止論に抗した時はあくまで人道的な見地から救貧を唱えたが、明治の終わりには富裕層に「富を増すほど社会の助力を受けているわけだから、恩恵に対して救済事業はむしろ当然の義務」と説いた。
大正時代に入ると「国の繁盛は貧民を増すとの念が深くなる」「富む者が富み、貧しきなる者貧しきに至るは社会に不自然なる変化の生ずる結果」と貧富の拡大を懸念した。
救貧にとどまらず、防貧策として、労働者保険や貯蓄を挙げ、職業紹介を養育院で手がけた。
明治初期、自身が導入に大きな役割を果たし、経済発展をもたらした資本主義の負の面は看過できないものだった。
渋沢の福祉への視点を開いたのは、自身が見込んで養育院で引き立てた人物たちだと稲松さんはみる。
その一人が養育院の幹事を務めた安達憲忠(けんちゅう)だ。
岡山県での自由民権運動に挫折し、上京。東京府に勤め、渋沢と出会って養育院の実務を任された。
のちに社会事業家として活躍する田中太郎は渋沢の命を受けて『養育院月報』を創刊し、入所者の聞き取り調査や七分積金の歴史、江戸時代以前や西洋の福祉施策について安達とともに執筆した。
渋沢は晩年、七分積金制度を作った松平定信の伝記『楽翁公伝』を編むなど定信の功績をたたえる活動に力を入れた。
定信が遺した七分積金は明治維新期、首都東京の近代化を助けると同時に、希有(けう)な実業家を慈善家へと導いた。
(黒崎亜弓・ジャーナリスト)
(本誌初出 社会慈善へ導いた財と人=黒崎亜弓/1 20210309)