「富の独占」より「公益」を重視する「渋沢資本主義」 今の日本には失われてしまったのか
明治維新以降の日本の資本主義の発展は、渋沢栄一を抜きに考えることはできない。
渋沢が日本に広めた「渋沢資本主義」は、欧米流の資本家の利益第一ではなく、「公益の追求が利益を生み出す」という信念に基づいたものである。
筆者は、渋沢資本主義の時代を明治維新からバブル崩壊までの120年と定義したい。
その120年は、前期渋沢資本主義(明治維新~第二次世界大戦敗戦)、後期渋沢資本主義(戦後復興~バブル崩壊)に分けられる。
皆で成長の果実を
前期渋沢資本主義の時代、それも明治期にあって、資本主義の草創期を支えた経済人には岩崎弥太郎もいる。
岩崎は三菱財閥を築き上げ、保有資産は渋沢をしのいだ。
しかし、岩崎は、政府からの資産払い下げや軍事輸送で独占的に利益を上げたことでもうかがえるように、「独占資本主義」を志向する経済人であった。
一方の、公益追求型の渋沢資本主義の原点は、フランス留学にある。
当時のフランスは、社会主義政策の中で殖産興業を進めており、資本家だけではなく、労働者を含めて成長の果実を取り込もうというリベラルな風潮があった。
渋沢が唱えた「合本主義」はフランス留学の影響であろう。
合本主義とは、公益をかなえるために、無名の庶民を含めた幅広い層の人々から資金を集めて、人材を募り事業を運営する理念で、今日の株式会社制度の原型である。
渋沢は、大蔵省では為替や銀行制度、証券取引所を作り上げ、民間に転じてからは繊維や紙などの基幹産業を作り上げた。この功績の多くは、海外の制度や技術を導入したものだ。
以上のように、権威主義でなく、国際化の波を受け入れるのが前期渋沢資本主義の特徴だ。
その渋沢の愛弟子だったのが、東京電燈会長や日本商工会議所会頭を務めた郷誠之助である。財界人として地位を固め、人気の高かった郷は、渋沢を信奉する若手財界人を集めた「番町会」を主宰した。いわば新進気鋭の財界人が集まるサロンである。
「帝人事件」の影
ところが、番町会のメンバーは、1930年代、疑獄疑惑として持ち上がった「帝人事件」の贈賄側として罪を問われる。
疑惑の詳細は説明を省くが、結局、「犯罪の事実なし」として、日本の刑事裁判の歴史に残る冤罪(えんざい)事件に終わった。
しかし、冤罪とはいえ番町会の勢いがそがれた上、疑惑と時を同じくして、大政翼賛体制、独占資本主義が台頭し、前期渋沢資本主義は終わりを告げた。
後期渋沢資本主義は、戦後復興とともにスタートした。その一翼を担ったのは、番町会のメンバーだった小林中(あたる、51年に日本開発銀行初代総裁)、河合良成(厚生相、小松製作所社長を歴任)らだった。
産業界における後期渋沢資本主義の特徴は、内務省に代わって官庁のトップに立った大蔵省と日本興業銀行が一体となって資金配分を取り仕切り、興銀が重厚長大産業に重点的に投融資したことだ。
興銀といえば、61~70年に頭取・会長を務めた中山素平は、興銀から開銀理事への出向経験があったことから、小林との信頼関係は厚かった。
いわば、前期渋沢資本主義の承継者であった中山は、日産自動車・プリンス自動車合併(66年)や、八幡製鉄・富士製鉄合併による新日本製鉄誕生(70年)の根回しに奔走し、金融界で後期渋沢資本主義時代を代表する経済人だ。
しかし、バブル以降は、国内産業が「軽薄短小」化し、低成長時代に入った。
興銀も、大手百貨店そごう向け融資に代表されるずさん・過剰融資がバブル崩壊で一気に不良債権化し、公的資金投入を経て、今は「みずほ銀行」となっている。
この過程で、70年の会長退任後も「特別顧問」などの肩書で相談に乗っていた中山も興銀から身を引き、2005年に逝去した。
永野重雄が路線承継
産業界で、後期渋沢資本主義を体現した人物といえば永野重雄だろう。
富士製鉄社長として八幡製鉄との合併を成し遂げ、新日鉄初代会長に就いた人物だ。番町会メンバーの永野護の弟でもある。
筆者の祖父に当たる永野護と渋沢の子息が大学時代の同級生であり、渋沢の秘書を務めるなど、永野家と渋沢家は浅からぬ縁があったことも一因だが、永野重雄が渋沢資本主義を体現したといわれるのには多くの理由がある。
その一つが、1946年7月~47年3月に実施された「八幡集中生産」であった。
富士・八幡に分割される以前の日本製鉄に在任していた永野は、八幡製鉄所以外の輪西、釜石、広畑などの溶鉱炉の火をすべて落とし、石炭を八幡に集中配分した。企業存続のためという大義を、すべての製鉄所の従業員に訴えての決断だった。
後に戦後の産業復興の決め手となった「傾斜生産方式」のモデルともいえる。
永野は、47年6月、八幡集中生産の功績を買われて、経済安定本部副長官に就任する。そこで、自身の経験を惜しみなく伝えたという。
それまで誰もやっていない事業モデルに挑戦する企業家精神、他企業・産業のために経験を広めた「公益性」という点で、渋沢資本主義にかなっている。
永野は財界活動にも熱心だった。46年に、諸井貫一(秩父セメント常務)らと共に、経済同友会を設立し、48年には日本経営者団体連盟(日経連)の発起人に名を連ねた。
しかし、永野の財界活動で特筆すべきは、59年の日本商工会議所会頭就任である。
日商は主に中小企業を会員として、各都道府県に下部組織を張り巡らせている。今日、財界団体といえば、大企業が名を連ねる経団連が筆頭に取り上げられることも多いが、地方の細やかな経済活動までを網羅できるのは日商である。
渋沢が創立した日商の会頭として、地方も中小企業も含めて経済成長を目指した財界活動は渋沢資本主義の体現であろう。
哲学を失った財界
そもそも、財界という制度を作ったのも渋沢だ。
約500の株式会社を作った渋沢は、財界人第1号といえる。出資金を集め、各社の経営者を指名し、出資金を配分する、という総資本の分配を担ったからだ。
戦後になり、財界は「総資本」と「総労働」の配分方針を決める役割に担うようになる。
ヒト・モノ・カネの3要素によって社会活動から得られる「総資本」の配分方針を決めていたのが旧経団連(経済団体連合会、46年設立)だ。
総資本の政界への配分が、企業の政治献金である。
一方、資本主義と社会主義の対立軸の中で労働政策を担い、雇用側から労働価値、つまりは賃金水準を決定していたのは日経連である。
両団体には、労働争議、石油危機、貿易摩擦などの難題に、資本、労働をいかに分配して解決するかという哲学があった。
しかし、2002年に日経連と経団連が統合し、現・経団連(日本経済団体連合会)が誕生してから、財界を支える哲学がなくなってしまった。
その最たるものが「日本の働き方はどうあるべきか」という哲学だ。
日経連の担っていた総労働の分配機能は、形式上は経団連が受け継いでいる。
しかし、安倍晋三政権の「働き方改革」「賃上げ」議論の中では、経団連はちょうちん持ちに終わってしまった。かつて、労働の価値を問い詰めてきた日経連の消滅は大きな禍根を残した。
なお問われる公益
バブル崩壊とともに後期渋沢資本主義は終わった。
だが、公益を求める資本主義は、不要なのだろうか。一つの示唆がある。
20年3月にゼネラル・エレクトリック(GE)の元CEO(最高経営責任者)のジャック・ウェルチ氏が逝去した。
氏はかつて、「選択と集中」のスローガンの下、自社が強い事業のみに特化したことが評価されていた。
しかし、この過程で、会社を守るために大規模な人的整理をしたことは「建物を守りながら、人を殺す中性子爆弾のような経営者」として「ニュートロンジャック」との蔑称でも呼ばれた。
また、氏が社長時代に本格参入した金融事業は、後継のジェフ・イメルト氏の下でやみくもな拡大を続けた結果、08年のリーマン・ショック時にGEが深刻な経営難に陥った。
20世紀・米国型の、大株主の利益を貪欲に求める経営手法は、ウェルチ氏の逝去と時代を同じくして急速に色あせている。
雇用、労働環境、少数株主の利益、環境……。会社経営者が考えねばならない公益は、後期渋沢資本主義崩壊後、むしろ増えている。
渋沢資本主義を貫く「公益の追求が利益に」という哲学は、今こそ求められている。
(永野健二・ジャーナリスト)
(本誌初出 渋沢を継ぐ者 「公益追求が利益に」へ共鳴=永野健二 20210302)