教養・歴史いま学ぶ!渋沢資本主義

日本の金融制度の基盤に!渋沢栄一が作った「藩札」流通の驚くべき仕組み/2

    国立銀行十円紙幣の(上)表面と(下)裏面。表は兌換文言が明記され、頭取名は当初就任予定だった小野善助が線で消され、渋沢になっている。裏は額面の金貨が描かれた(日本銀行貨幣博物館所蔵)
    国立銀行十円紙幣の(上)表面と(下)裏面。表は兌換文言が明記され、頭取名は当初就任予定だった小野善助が線で消され、渋沢になっている。裏は額面の金貨が描かれた(日本銀行貨幣博物館所蔵)

    数ある渋沢の業績の中でも、日本の近代金融制度の確立に果たした功績は特筆すべきものである。

    渋沢は金融システムの骨格となる国立銀行制度を設計した。最初の国立銀行である第一国立銀行(現みずほ銀行)の設立・運営の中心となり、他の国立銀行の設立・運営を助けて各地の銀行を結ぶ全国的な金融ネットワークを構築し、金融界の指導的存在となった。

    国立銀行は、民間出資の銀行であり、紙幣の発行権限を持つ発券銀行である。明治維新後に大量に発行された政府紙幣の回収と、殖産興業の推進を同時に達成するために制度が導入された。

    銀行ビジネスの基本は、歴史的に金融仲介と決済であった。

    銀行の債務である紙幣や、預金の形で貸し出された資金が「お金」として決済に利用される。

    紙幣が人々からの信用を獲得して「お金」として円滑に流通するための条件は何か。

    金や銀といった「正貨」との兌換(だかん)を約束するだけでは、人々の信用を得ることはできない。逆に、正貨との兌換が保証されていない「お金」でも円滑に流通することは可能である。

    肝要なのは、紙幣や預金の形で銀行が貸し出した資金が、価値のある商品(財・サービス)の生産や流通のために有効に使われ、その代金が銀行に還流してくるという循環が創り出されていることである。

    そのため、銀行には収益性と返済能力を有する借り手を見つけ、事業を見守り支えていく信用リスク管理能力が求められる。

    渋沢は、幕末に藩札発行の実務経験を通じてそのことを体得し、国立銀行制度の導入と普及を通じて全国に浸透させた。

    藩札で殖産興業

    武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)の富農出身の渋沢は、幕末に志士活動をしていたところを一橋慶喜に認められ、経済官僚として取り立てられた。

    1865(慶応元)年から翌年にかけて、播磨国(はりまのくに)(現在の兵庫県南部)の一橋領で木綿生産拡大のため紙幣(藩札)を発行した。

    その仕組みは次のようなものであった。

    木綿の買い入れのための資金が必要な商人に対し、その商人が保有している木綿と引き換えに藩札を貸し出す(図の(1))。

    商人は領内で藩札を使って次の木綿の買い付けができる(図の(2))。

    商人が藩の産物会所(特産品を専売する藩の商業組織)による木綿の売却を望む場合には、産物会所は売上代金として買い主から正貨(銀など)を得て、売上代金の中から貸し付けた藩札の返済金と若干の手数料を取る(図の(3)A)。

    商人が自身で売却する時には、売却代金の正貨から藩札で借りた金額を藩に返済する(図の(3)B)。

    領内で生産された木綿が大坂(当時)の買い主に利益の出る価格で売却できれば、藩の産物会所には大坂で得た正貨が兌換準備金として蓄積される。

    渋沢は、藩札を利用して物流を盛んにすることで、地域経済の活性化(殖産興業)と藩財政の改善を目指したのである。

    藩札と正貨との兌換を保証していたが、実際には兌換請求はほとんどなく、一方で木綿の売買に便利であったので、当初懸念していた領民も安心し、喜んだという。

    江戸時代後期から幕末にかけて、殖産興業を標榜(ひょうぼう)して藩札を発行した藩は他にもあったが、成功例はそれほど多くなかったとされる。

    渋沢の藩札は、商品の代金が後払いされることへの信用を地域の物流に利用する点で、西洋の銀行制度と原理は共通している。

    渋沢自身も、当時は外国での紙幣発行など聞いたこともなかったが、後に「この時の考えは経済の道理に合っていた」と振り返っており、国立銀行の制度設計や運営の発想の原点に藩札発行の経験があったことを示唆している。

    慶喜に従い幕臣となり、パリ万博の使節団員として欧州で見聞を広めた渋沢は、維新後は静岡に移ったが、明治新政府からの呼び出しを受けて大蔵省(現財務省)入りした。

    当時の大蔵省は改革派の牙城であり、大蔵大輔(たゆう)の大隈重信のほか、伊藤博文、井上馨、渋沢らが参集し、後に英米両国で学んだ吉田清成が加わる。

    近代的な銀行制度の導入に際しては、伊藤と吉田の間で意見の対立があった。

    伊藤は、藩や各地に点在していた幕府の直轄領を単位とする日本の経済構造に地方分散型が合うという理由で、米国型の複数の発券銀行からなる制度の採用を提案。

    吉田は、兌換制度の要となる欧州型の単一の発券銀行(中央銀行)を中心とする制度の採用を求めた。

    この銀行論争は欧米各国の銀行制度を詳細に調査して当時の最先端の金融知識を吸収しながら行われた。

    両者の中間を取るかたちで、米国型の複数の発券銀行を設立するが、発券銀行の規律付けのため正貨による兌換義務を課し、厳格な準備金規定を設けることとなった。

    伊藤と吉田は法令化の前にプロジェクトから去り、藩札発行の実務経験を有する渋沢が中心となって国立銀行制度を起案した。

    兌換が裏目に

    1872(明治5)年に国立銀行条例が公布され、翌年、第一国立銀行が設立された。

    渋沢は同年に官を辞し、第一国立銀行の総監役(後に頭取)に就任した。

    もっとも、厳格な兌換準備規定が制約となり、設立された国立銀行は4行にとどまり、その経営も順調とは言い難かった。

    兌換の保証は、紙幣の信用を保証するものではなかったのである。

    1876(明治9)年に政府は士族に対する秩禄(ちつろく)の支給を廃止し、代わりに金禄公債を交付した(秩禄処分)。

    あわせて、国立銀行紙幣の兌換義務を停止するとともに、国立銀行への出資にあたり公債での払い込みを認めることとした。

    これにより、国立銀行が全国に153行設立された。

    第一国立銀行は急速に業容を拡大し、全国的な金融ネットワークの中心的存在となった。

    渋沢は各地の国立銀行設立を援助し、第一国立銀行で研修を受けた他の銀行の職員が各地の銀行の経営を支えた。

    また、渋沢が中心となり、全国初の銀行団体である択善会(現全国銀行協会)を結成した。

    その後、国立銀行の中には、貸出先の審査機能が十分ではなく不良債権を抱える銀行もあった。

    政府は方針を転換して国立銀行のネットワークは残しつつ、発券については日本銀行を1882(明治15)年に設立して集約させることとした。

    国立銀行の発券機能は失われたが、その多くは存続し、金融システムの中核として日本の近代化を支えた。

    (鎮目雅人・早稲田大学政治経済学術院教授)

    (本誌初出 近代のお金を生んだ藩札の経験=鎮目雅人/2 20210316)

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