『後藤新平の台湾 人類もまた生物の一つなり』 評者・高橋克秀
著者 渡辺利夫(経済学者) 中公選書 1600円
台湾経済の基盤をつくった生物学的視点の制度設計
半導体の生産拠点としての台湾。コロナ対策で成功を収めた台湾。米中対立の最前線としての台湾。その台湾を日本が植民地にしていたのは日清戦争後の1895年から太平洋戦争終結までの50年間である。初めての海外領土となった台湾には、列強に恥じない植民地を建設しようとする新興国日本のエネルギーが注ぎ込まれた。本書は明治の官僚・政治家、後藤新平の台湾経営を通して、日本の近代化の意味と東アジアの行く末を考えさせる好著である。
清国から割譲された当時の台湾は辺境の地であった。コレラが流行し、アヘン吸引が蔓延(まんえん)していた。現地武装勢力はゲリラ戦で抵抗してきた。厳しい武断統治を試みた乃木希典(まれすけ)総督は失敗して帰国した。
後藤が児玉源太郎総督の右腕として台湾に赴任したのは明治31年(1898年)のことである。即断即決で度量の大きい児玉の信頼の下でのびのびと働くことができた。後藤の台湾経営の哲学は、生物学的植民地論といわれる。個々の生物の生育には固有の生態的条件が必要なように、本国の制度や組織を台湾に押し付けてもうまくいくはずがない。後藤は台湾に古くからある慣習や風俗を法的に、あるいは文化人類学的視点から研究し、民情に合った無理のない制度設計を進めた。同時に土地・林野・人口調査を徹底して台湾経済の基盤を整備した。台湾銀行の設立、縦貫鉄道の建設、灌漑(かんがい)施設の拡充、製糖産業の育成、コメの品種改良、予防接種の義務化、教育の推進など後藤の時代に産業インフラは整った。開発経済学が生まれる以前に経済発展の理論を実践していたことに驚かされる。
明治39年、台湾経営の実績を評価された後藤は初代南満州鉄道総裁に就く。満州(中国東北部)での後藤は「文装的武備論」を掲げた。これは、武威で虚勢を張ることをやめて、実業教育政策により国力を充実させるというソフトパワー論である。しかし、満州では、経済・文化重視のアイデアは拒否された。軍部の関与が小さかった台湾開発とは異なり、満州ではすでに関東軍による利権が張り巡らされていたからである。
内務省衛生局長、台湾民政長官、満鉄総裁、内務大臣、外務大臣、東京市長を歴任した後藤の経歴は輝かしい。それでも台湾時代こそがキャリアの頂点であったと筆者は力説する。晩年の後藤は、軍部の圧力の前に政策の自由度を失って鬱屈していった。最終的に軍部独裁に行き着いてしまった日本の近代化の苦い帰結を後藤も味わったのだった。
(高橋克秀・国学院大学教授)
渡辺利夫(わたなべ・としお)
1939年生まれ。慶応義塾大学大学院経済学研究科修了。東京工業大学教授、拓殖大学総長などを歴任。専門は開発経済学。著書に『成長のアジア 停滞のアジア』(吉野作造賞)など。