経済・企業

なぜバブル期には大ヒット商品が生まれたのか? 今と比べ圧倒的に違うのは「リーダーの○○」だった

    東京・芝浦のジュリアナ東京。お立ち台の上で扇子を片手に踊り続ける超ミニスカートの女性客
    東京・芝浦のジュリアナ東京。お立ち台の上で扇子を片手に踊り続ける超ミニスカートの女性客

    大ヒット商品を「連発」した時代

    1987年はスーパードライをはじめ、各業界からヒット商品が集中した年だった。

    三菱電機が発売したダニを駆除するクリーナー「ダニパンチ」、同じく三菱電機の大型テレビ、花王のコンパクト粉末洗剤「アタック」、”女子大生ホイホイ”と呼ばれ若い女性が乗りたがったホンダ・プレリュード(三代目)など。

    発売は86年だが富士フイルムのレンズ付きフィルム「写ルンです」、そして前田仁が初代店長を務め86年10月オープンしたビアホール・ハートランド、同10月発売のキリン「午後の紅茶」、88年1月に発売され3ナンバー車のトレンドをつくった日産・シーマ……。

    初代写ルンです。1986年発売=富士フイルム提供
    初代写ルンです。1986年発売=富士フイルム提供

    なぜ、これほど多くのヒット商品が誕生したのか。

    以前も指摘したが、バブル景気が始まったのは旧経企庁によれば86年12月から。

    つまり、87年とはそれまでの円高不況を乗り切って、景気が好転していった時期に当たる。

    「アメリカでは景気が好転すると、家具や食器類、調度品が売れる」(百貨店首脳)が、日本では景気好転期には、大型のヒット商品が生まれる。

    第二次オイルショック後の不況を乗り切った80年代前半にも、マツダの赤いファミリア、VHS方式VTR、レーザーディスク、NECのPCなどが売れ、チューハイブームも起きた。

    新しいものを受け入れようとする生活者の消費マインドが、顕著となるためだろう。

    転換期に生まれたヒット作の特徴は、「新機軸」という点だ。

    前田は新商品開発について、「『一歩先に行っちゃダメだ。半歩、そうほんの少しだけ先に行くことが大切』だとよく私たちに話していました」と山田精二キリンビール企画部部長は話す(89年入社の山田はマーケ部で勤務経験があり、前田を”師”として尊敬していた)。

    87年のような激変期には、その半歩の幅が非常に大きかったのだ。

    85年のプラザ合意時には1万2000円台だった日経平均株価は、87年9月には2万5000円台と約2倍に上昇。

    世界的な株価大暴落である10月19日の“ブラックマンデー”も大きな影響はなく、89年12月29日の大納会で記録した3万8957円44銭まで、ほぼ一本調子で上昇を続けていく。

    プラザ合意による円高、そして過剰流動性が生んだ「バブル経済」。

    「繁栄はずっと続く」と、多くの生活者が本当に信じていた結果、従来の延長線上にはない、まったく新しい商品がヒットしたのだろう。

    また、キリンの太田恵理子が「スーパードライは女性が後押しした」と指摘したように、87年には女性にフォーカスしたヒット商品が多かったのも特徴といえる。

    なぜ販売を拡大しつづけられたのか?

    なかでも3位メーカーに過ぎなかったアサヒのスーパードライは、群を抜く大ヒット商品だった。

    新商品「Z」とのカニバリを起こし販売が低迷した91年を除けば、2000年まで長期的に販売量が前年比を上回り続ける。

    販売拡大を継続できた大きな理由は、生産体制の増強にあった。思い切った設備投資を、社長である樋口が即断したのだ。

    スーパードライ発売から半年も経過しない87年夏のことである。

    三ツ矢サイダーや缶コーヒーを生産していたアサヒビール飲料柏工場(当時)を樋口は訪れていた。

    故・樋口広太郎(1999年2月26日撮影)
    故・樋口広太郎(1999年2月26日撮影)

    従業員を前に挨拶をしたときに、「今度、(柏市と隣接する)守谷にビールの新工場をつくる」と話してしまう。

    当時、新工場建設計画はごく一部の首脳しか知らない極秘案件だった。

    監督官庁の大蔵省(現在の財務省)への報告もしていなかった。

    おそらく、生産現場に働く社員を鼓舞しようとするサービス精神から発してしまった一言だったのだろうが、周囲はあわてた。

    樋口は重要なことを小気味よく話す経営者だった。前例を無視し、自分で判断していくタイプである。

    当時のリーダーは何が違ったのか?

    それはともかく、樋口の社長就任前まで経営危機に直面していたアサヒの設備投資額は、10年間で約40億円の規模だった。

    一方、86年から90年までの設備投資額は5年間で4138億円にも及んだ。

    特に87年から投資額は一挙に膨らむ。

    各工場の倉庫に生産設備を導入したのをはじめ、スーパードライ増産のために惜しみなく資金を投じていった。

    90年には、最新鋭の茨城工場(守谷市)の建設など、実に2000億円近くを投じた(同工場の竣工は91年4月)。

    これにより、アサヒの生産能力は樋口が社長に就任する以前の5倍に増強される。

    また、89年に名古屋工場に勤務していた幹部は、次のような話をしてくれた。

    「生産設備はそれまでIHIや日立造船に発注していました。ところが彼らはアサヒが要求する納期に対応できないと言ってきた。そこで、三菱重工に発注先を替えてしまった。

    三菱重工は造船用の生産設備でビールの貯酒タンクを製造して納期に対応した。

    キリンと同じ三菱系への発注など、それまでは考えられなかったのに、樋口さんは前例やしがらみを、ことごとく破っていった。

    お陰で名古屋工場の生産能力は10倍になり、中京地域での商戦に貢献できました」

    この時の三菱重工の社長は相川賢太郎。その後、三菱グループのドン(首領)になる男だった。

    「ドライ戦争」の勃発

    アサヒが大がかりな設備投資を断行できた背景には、ちょうどバブルが始まり資金調達が容易になったことが大きな要因としてあった。

    もっとも、設備投資だけではなく、財テク、さらに海外投資も果敢に行ったことで、バブル崩壊とともにアサヒは巨額の有利子負債を抱えてしまう。

    この樋口が遺した”負の遺産”に、その後のアサヒは苦しめられていくのである。

    樋口が会長に退いた92年当時は連結での開示義務はなく、絶望的な財務状況を知るのは樋口に代わりプロパーで社長に就いた瀬戸雄三ら一握りだった。

    ちなみに、90年までの5年間でアサヒが調達した資金は4800億円超とみられ、設備投資額を上回っていた。

    スーパードライの大ヒットにより、87年のアサヒの販売量は3290万箱(1箱は大瓶20本)となる。前年比でみると、実に34.9%増という激増ぶりであった。

    発売当時のアサヒスーパードライ
    発売当時のアサヒスーパードライ

    シェアは12.7%で前年より2.6ポイントも上昇していた。

    大手4社合計の販売量も、前年比7.6%増の4億1776万箱となり、初めて4億箱を超えた。

    キリンは2.5%増、サッポロ6.6%増、サントリー11.6%増と、いずれも販売量を増やした。

    スーパードライが牽引し、ビール市場そのものが成長軌道に乗った。ただし、キリンのシェアは57.2%となり、前年より2.7ポイント落としてしまう。

    明けて88年。2月に、キリン、サッポロ、サントリーの3社は、スーパードライを追随する形で「ドライビール」を相次いで発売。世に言う”ドライ戦争”が勃発した。

    とりわけキリンが出した「キリンドライ」は、年末までに3964万箱を販売。

    これは、87年にスーパードライが打ち立てた新製品の初年度販売記録である1350万箱のほぼ3倍に相当する。

    2021年春までの段階で、発泡酒や第3のビールを含め、この記録を超える新製品は登場していない。

    いや、2020年まで市場は16年連続で縮小しているが、日本の人口が減少し続けるだけに、この後も現れないだろう。

    先発のアサヒが勝ってしまう

    しかし、キリンは88年に販売量を4.1%落としてしまう。キリンドライが、主力の「ラガー」のシェアを奪ってしまったためである。

    88年のビール市場(4社の合計販売量)は、ドライ戦争の激化から前年比7.2%増の4億7774万箱に拡大。

    この結果、新製品のヒットにもかかわらず、キリンはシェアを6.1ポイントも落とし51.1%と、会社始まって以来の凋落を描く。

    生産設備を増強しながら商戦に臨んだアサヒは、販売量を前年比70.1%も伸ばし、シェアは7.4ポイントも上げて20.1%と大台に乗せる。

    サッポロは3.3%販売を伸ばすが、シェアは0.7ポイント落として19.9%に。

    これによりアサヒは1961年以来27年ぶりに2位に浮上。一方で順位を落としたサッポロでは、この責任を取る形で、翌89年に経営トップが代わった。

    翌89年にもキリン、サッポロともにドライビールの新商品を投入するが、88年の段階でドライ戦争におけるアサヒの勝利は確定していた。

    ちなみに、94年にサントリーが開発した発泡酒「ホップス」、03年にサッポロが開発した第3のビール「ドラフトワン」と、その後も革新的な商品が世に出ている。

    だが、いずれもスーパードライのような大ヒット商品にはなれなかった。

    理由としては、サントリーもサッポロも、バブル期のアサヒのような大掛かりな設備投資ができず、供給能力が限定されていたことが挙げられるだろう。

    また、発売がどちらも87年のような景気の拡大期に当たっていなかったことも大きかった。いずれも、デフレが進行する景気低迷期において、”低価格“なのを売りにしていた。

    「ドライビールなど出すべきではなかった」。

    当時を知る3社のビール業界人は一様にそう話す。

    「キリンドライは慌てて出したため、完成度は低かった」(キリンの生産部門の元幹部)、

    「特約店(卸)からドライビールを出してくれと要請され、出さざるを得なかった」(サッポロのマーケ部門の元役員)、

    「アサヒが大ヒットを飛ばしたのを見て、同じことをすれば俺たちにもチャンスはあると考えたが、かえって自分たち自身を見失う結果を招いた。そもそも、開発型であるサントリーが"モノ真似“をした時点で、失敗は見えていた」(サントリーの技術・生産部門の元役員)。

    3社が”後追い”したことで、ドライというジャンルが形成されたが、その結果、先発のスーパードライだけが売れ続けていった。

    仮に、3社がドライビールを出さなければ、スーパードライのヒットは限定的だったかも知れない。

    永井 隆(ながい・たかし)

    1958年生まれ。フリージャーナリスト。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動を行う一方、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。 主な著書に『移民解禁』(毎日新聞出版)、『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『EVウォーズ』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)など。

    インタビュー

    週刊エコノミスト最新号のご案内

    週刊エコノミスト最新号

    4月20日号

    バブル前夜 金利上昇の恐怖16 バフェットが日本株買い増し 成長株から割安株へシフト ■編集部20 ITバブル再来 年末3万5000円の「新技術バブル」 ■平川 昇二24 高まるバブル懸念 パウエル流の金融緩和継続に FRBは一枚岩ではない ■鈴木 敏之27 アンケート1 2022年の日米成長率と米 [目次を見る]

    デジタル紙面ビューアーで読む

    おすすめ情報

    最新の注目記事