経済・企業

「スーパードライ」はなぜ大ヒットしたのか 酒屋へのアポ無し営業を繰り返した「外様社長」の執念と行動力

    故・樋口広太郎(1999年2月26日撮影)
    故・樋口広太郎(1999年2月26日撮影)

    苦境にあえいでいたアサヒに、旧住友銀行から新しい社長が送り込まれる。

    それが樋口廣太郎だった。

    もともと、アサヒ再建より、後始末のために送り込まれた樋口だったが、自身もどぶ板営業を嫌がらず、とうとう「スーパードライ」というメガヒット商品を生みだす。

    アサヒはなぜ、時代の変化に敏感であることができたのか。

    「ハートランド」「一番搾り」ほか、さまざまなヒット商品を開発し、キリンビバレッジ社長に上り詰めた前田仁氏の逸話を、ジャーナリストの永井隆氏が語り継ぐ本連載。

    第8回目は、キリンのはるか後塵を拝していたアサヒが、「スーパードライ」を投入したいきさつを語る。(前回はこちら)

    酒屋をアポなし訪問する新社長

    「このたび、アサヒビール社長に就任しました、樋口廣太郎でございます」

    樋口は都内の酒屋や飲食店を、”アポ無し”で訪問していた。

    一晩で20軒回ることも珍しくなかった。

    ややしゃがれた声で、ニコニコと笑顔を湛え、名刺を差し出して、膝におでこがくっつくくらいに頭を下げる。小さな体躯は真っ二つに折れ曲がっていた。

    樋口は京都の商家育ちで、根っからの商人だった。フットワークは軽く腰は低い。

    卸にしか営業にいかないキリンとくらべて、アサヒはわざわざ社長が挨拶にやってくる。

    訪問を受けた酒屋の店主は、腰を抜かすほど驚き、アサヒのファンになる。

    樋口廣太郎が、旧住友銀行副頭取からアサヒビール顧問に就いたのは1986年1月7日のことだった。3月28日には社長に就任する。このとき樋口は60歳だった。

    71年以来、旧住銀はアサヒに社長を送っていた。樋口で4代目である。

    樋口の社長就任で、前任の村井勉は会長に退いた。

    「飲みやすいビールを求めている」隠れたニーズを掘り当てる

    トップ交代とあわせて、2月19日に「新アサヒ生ビール(通称・コクキレビール)」をリニューアル発売し、これがヒットする。

    おかげで86年のアサヒは、年間販売量を前年比12.0%も伸ばすことに成功。

    業界平均(4社)の5.9%増を大きく上回る好成績だった。

    シェアも10.1%(85年は9.6%)と5年ぶりに10%台に戻す。約6割のシェアを持つキリンからすると、0.5ポイントは取るに足らない数字かも知れない。

    だが、苦境にあえぐアサヒにとっては大きな意味を持つ数字だった。

    「コクキレ」ヒットの裏には、84年夏から85年にかけて、東京と大阪で、それぞれ5000人を対象に実施した消費者嗜好調査の結果があった。

    樋口の前任の社長である村井は、非公式に部長たちを集めた読書会と、その後の飲み会を開いていたが、こうした席で「一度原点に戻り、お客様がどんなビールを求めているのか、徹底的に調べてみよう」という方針を決めたのである。

    だがアサヒには大規模なマーケット調査を行うお金がなかった。

    そのため、社員が酒屋の店頭に立って、アンケートを実施したという。

    このように、アサヒは「道行くあらゆる人々」を対象に、消費者調査を実施し、多くの声を集めた。

    大学教授やアーティストなど「時代を先取りする一部の人」だけを調査したハートランドとは全く異なるアプローチだ。

    この調査から、アサヒは「ビールを飲む人の多くは、軽快で飲みやすいタイプを求めている。この傾向は20代や30代ほど顕著」という結果を得た。

    消費者のビールの好みは変わっていたのだ。

    その背景には、日本人の食生活の変化があった。

    世帯当たりの油脂の消費量は60年からの20年間で2倍に跳ね上がっていた。

    主に魚を食べていた日本人は、高度経済成長とともに、ハンバーグなどの肉類を多く食べるようになっていた。洋食化が進んでいたのだ。

    日本のビール産業は明治期にドイツから技術を学んでいる。

    本格ドイツタイプの「カブトビール」 復刻された明治のビールを試飲する参加者=愛知県半田市で2004年10月31日撮影
    本格ドイツタイプの「カブトビール」 復刻された明治のビールを試飲する参加者=愛知県半田市で2004年10月31日撮影

    ドイツのビールは麦芽100%の重厚な味わいが特徴だ。

    アサヒを含め大手4社は当時、ドイツタイプの重めのビールをよしとする傾向が強く、軽いビールを求める消費者の嗜好との間にズレがあった。

    「明治時代からずっと日本のビールは苦味の強いビールばかりだったが、お客様が求めていたのはバドワイザーに代表されるアメリカンタイプのビールでした。肉料理などの脂分の多い食事を損なわず、サラッとして飲み飽きないビールこそ求められていたのです」と、当時のアサヒ技術部門首脳は語ってくれた。

    その消費者調査をベースに、「軽いビール」として作った「コクキレ」は、計算通りのヒットとなった。

    産業史に残る大ヒット商品「スーパードライ」

    その時、すでにもう一つの新製品企画が進んでいた。

    開発コードネーム「FX」。「コクキレ」よりも、キレを強く、クリアーな味で飲みやすいビールを目指す。

    メインターゲットは20代と30代だった。

    86年6月に樋口はFXの商品化を認める。

    しかし、その後3回にわたる経営会議が開かれたが、その発売が連続して却下されてしまった。

    コクキレが好調だったため、新製品が発売されると、自社商品同士で競合してしまうという、いわゆる「カニバリ」を懸念されたためだった。

    「久々に売れている商品があるのに、その足を引っ張ってしまう」

    特にアサヒの営業部門から強硬に反対されたという。

    紛糾の末、FXの発売が最終決定されたのは11月末だった。

    樋口が後押しして、何とか経営会議を通すことができたのである。

    ただし、全国発売ではなく、関東地域限定販売となった。

    このFXこそ、スーパードライだった。

    発売当時のアサヒスーパードライ
    発売当時のアサヒスーパードライ

    これが戦後日本の産業史における最大級のヒット商品となるとは、この時点では誰一人予想だにしなかった。

    96年7月のことだったが、樋口は筆者に次のような話を語った。

    「俺がアサヒビールに来た本当の狙いは、再建なんかじゃない。本当は”幕引き”をするためだった。磯田さん(一郎・旧住友銀行元頭取)が、佐治さん(敬三・サントリー元社長)にアサヒの売却を申し入れたんだが、話はまとまらなかった。もはや万策尽き、磯田さんは俺を幕引き役としてアサヒに送り込んだ。これが真相だ」

    「だけど、実際に来てみると、アサヒには優秀な人材がたくさんいた。(占領時代の1949年に)大日本ビールは過度経済力集中排除法によってアサヒとサッポロに解体された。つまり、GHQはビール産業を製鉄と同様の先端産業だとみていた。優秀な人材が集まっているのは当たり前だな。

     そこで、会社を閉じる前に、一丁やってみたら、これがうまくいった」

    「鬼軍曹」かつ「ナイスフォロー」の男

    樋口はいつも、重要な話をこともなげに話す人間だった。

    しかも、快活に、明るく、楽しそうに。

    気がつけば、彼が発する強烈なオーラのようなものに巻き込まれている。

    ただし樋口は、社員に対してはあくまでも厳しい社長だった。

    ”カミナリ”を落とすことも頻繁にあったという。

    前任の村井は、社員に対して紳士的で包み込むような態度で接していただけに、その落差は大きかった。

    「何やっている!」と、頭から湯気を立てんばかりに樋口は怒鳴りつけていたという。

    客先や記者クラブで見せる、眼鏡の奥の優しい瞳はどこにもなく、瞬間湯沸器のように別人に豹変する。

    その矛先は、先輩である村井に向けられることさえあった。

    「社長時代の樋口さんは、それは怖かったですよ。私などはしょっちゅう怒られていて、その度にドッと汗が噴いて、京橋の本社(当時)から日本橋の三越まで歩いてシャツを買いに通ったくらいでした。しかし、大勢の前で怒られた後、内線電話がかかってきたり、個別に呼ばれて、『さっきはすまなかった。俺はお前に期待してるんだ』などとフォローしてくれるんです。だから私達は、怒られても頑張れたのです」

    当時のアサヒで技術部門幹部として働いていた人物が、こう話してくれたことがあった。

    一方の樋口は、「(86年1月に)アサヒに来たとき、周りは敵だらけだった。銀行から来た今度の男は、何をやるのか、といった眼でみんな見ていた」

    「俺は彼らを指導し、鍛えていった」と、白金台の自宅マンションに夜回りをした筆者に話してくれた。

    名門企業アサヒが生きるか死ぬかという切羽詰まった状況下で、樋口は心を鬼にして経営に立ち向かったのは間違いない。

    「辛口」を訴求し、87年3月17日に発売された「スーパードライ」は、発売当初から好調だった。

    4月に入ると販売エリアを広げ、5月中には沖縄を除く全国発売に切りかえた。

    これらは樋口の決断による、電光石火の販売攻勢だった。

    酒屋への訪問を重ねていた樋口は、肌感覚でマーケットの反応をつかんでいたに違いない。

    年内100万箱(1箱は大瓶20本)だったスーパードライの販売目標は、5月以降、次々と上方修正されていく。

    生産体制も、コクキレよりスーパードライ中心に切りかえていった。

    スーパードライの人気が沸騰し、供給が間に合わなくなると、「社員はスーパードライを飲んではならない」という樋口の指示が下った。

    結局、その年の年末までに、「1350万箱」が売れた。

    これはその前年に、モルツが打ち立てた新製品の初年度販売記録「184万9000箱」を、はるかに塗り替える記録となる。

    だが、1987年はアサヒの快進撃にとって、序章でしかなかった。というのも、キリンなど3社は、この後やってはいけない行動をとってしまうから。(つづく)

    永井 隆(ながい・たかし)

    1958年生まれ。フリージャーナリスト。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動を行う一方、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。 主な著書に『移民解禁』(毎日新聞出版)、『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『EVウォーズ』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)など。

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