経済・企業

「ストリップ劇場を足場に地域シェア1位へ」苦境のアサヒを救った「伝説のどぶ板営業」の実態

    アサヒスーパードライ
    アサヒスーパードライ

    バブル経済へ日本全体が突入する1980年代当時、キリンが6割という圧倒的なシェアを誇る一方、苦境にあえいでいたビール会社があった。

    のちにシェアNo1の座に駆け上がるアサヒビールだ。

    キリンが「ハートランド」の全国販売に踏み切る一方、アサヒは「スーパードライ」によって失地回復を虎視眈々とうかがっていた。

    キリンとは対照的に、「足で稼ぐ」アサヒの強さの秘密とは?

    「ハートランド」「一番搾り」ほか、さまざまなヒット商品を開発し、キリンビバレッジ社長に上り詰めた前田仁氏の逸話を、ジャーナリストの永井隆氏が語り継ぐ本連載。

    第6回目は「スーパードライ」発売前夜のアサヒとキリンの闘いを語る。(前回はこちら

    缶入り「ハートランド」発売という挫折

    「『ラガーだけに頼っているキリンへの危機感』は、ジンさん(前田仁)の言葉の端々にあふれていました。『いまのままでは、(キリンは)いけないんだ』という危機感が、アルバイトの私たちにもビシビシ伝わってきました。ただ、それでもハートランドビールではキリンを救えないことも、ジンさんはわかっていたように見えました」

    「ビアホール・ハートランド」の「穴ぐら」がオープンした時から、アルバイトとして働いていた浦郷雅裕は、このように指摘する。

    浦郷は当時、大学の英米文学部4年生。1年間のアメリカ留学を終え、日本に帰国したばかりだった。

    「ハートランド・プロジェクト」は、看板商品「ラガー」に安住し、変化を拒んでいるキリンを変えるためのものだった。

    だが、「ビアホール・ハートランド」の来店客が増加すると、キリン内部では、前田が目指す方向とは別の動きが始まる。

    それは、ハートランドを缶ビールにして全国発売する、という動きだった。

    実際に、350mlと500mlの缶ビールとして、87年4月上旬の発売が決まってしまう(広報発表は2月23日)。

    もともと、「ハートランド」は全国発売を想定していなかった。

    500mlのグリーンボトル、生ビール用の樽だけを横浜工場で少量生産し、「ビアホール・ハートランド」だけで提供していた。

    キリンラガーに対抗する商品として、ラガーのような大量生産ではなく、ファンだけに届ける「とがったビール」のはずだった。

    それを缶ビールとして全国の酒販店で量販すれば、「ラガー」と同じ土俵で闘うことになる。

    そうなると不動の売り上げNo1ビールである「ラガー」には勝てない。ラガーの引き立て役に甘んじることになる。

    これはハートランドのブランド価値を毀損(きそん)する行為だった。

    「ハートランド」の全国発売を決めたのは、社内で絶大な力を持つ、キリンの営業部だった。

    営業部としては、「ビアホール・ハートランド」が成功しつつあるのだから、缶入り「ハートランド」もきっと売れるだろうと考えたのだ。

    前田の計画がうまくいったことで、営業部が欲を出し、「ハートランド」のブランド価値を毀損するような決定が下されてしてしまったのだから、皮肉というほかない。

    缶入り「ハートランド」の発売は、ビアホールで成功した前田にとって、挫折でもあった。

    「スーパードライ」誕生の衝撃

    ちょうど成功と挫折を前田が味わっていたその頃のこと。

    1987年3月17日は火曜日だった。この日、関東にある約3万店の酒屋に、アサビールから新製品が宅急便で送られてきた。瓶と缶が一本ずつ詰められ、説明書が添えられていた。

    同じ日に、同じ条件で新製品がすべての酒屋に送られること自体、業界では初めてだった。

    それまで、新製品の頒布は、営業マンが一軒ずつ回ったり、問屋ルートで配送されるのが普通だった。そのため、最低でも2週間ほど要した。

    しかしアサヒのマーケティング部は同時頒布にこだわった。

    「小さな酒販店まで平等に扱うことで、酒屋のモチベーションと競争心を高める」という狙いがあったからだ。

    ヤマト運輸が開発した宅急便によって、同時頒布が実現する。

    この時の新製品が「スーパードライ」だった。

    「スーパードライ」は発売当初、関東・山梨の限定発売だった。販売目標は、年内に100万箱(1箱は大瓶20本)。

    その前年の86年に、2億2534万箱を売ったキリンからすれば、まったく問題にならない程度の規模だった。

    「阪神の優勝」がアサヒを救った?

    80年代に入るとアサヒは、経営危機に直面していく。81年にはリストラを断行し、この時期、仕手筋による株式の買い占めにも苦しんでいる。

    アサヒのシェアが初めて10%の大台を割ったのは82年で、9.7%にまで落ち込んだ。83年が9.9%、84年9.7%と9%台後半で推移し、85年のシェアは最悪の9.6%まで失速する。85年のサントリーのシェアは9.3%で、ほぼ並走状態に追い上げられた。

    85年は、阪神タイガースが21年ぶりとなる奇跡の優勝を果たした年だったが、この阪神の活躍がなければ、アサヒはサントリーに抜かれ業界4位に転落していたといわれている。

    セ・リーグ優勝で万歳する阪神タイガースファン(1985年)
    セ・リーグ優勝で万歳する阪神タイガースファン(1985年)

    というのも、西宮市の阪神甲子園球場は当時、アサヒしか販売していなかったのである。

    連日超満員のスタジアムで、アサヒのビールは飛ぶように売れた。

    さらに、「がんばれ!阪神タイガース」という缶ビールをアサヒは全国で販売し、タイガースファンはこれを飲んで応援していたという。

    86年にはアサヒ生ビールをリニューアル。「コクがあるのに、キレがある」というキャッチフレーズも人気をあつめ、シェアを10.1%まで戻す。

    だが、経営のピンチは続いていた。

    「キリンのビールをアサヒに入れかえる」という荒技

    連載第2回にも記したが、キリンの営業マンは、卸までしか行かない。最前線である酒販店を訪れることはまずなかった。

    シェアが6割もあるため、これ以上売れるとキリンは分割されてしまう。そのためキリンは70年代から本格的な営業をしていなかった。

    だからキリンの営業とは、コーヒーやお茶を用意して出迎えてくれる卸に、「今週はこの数量を割り当てます」と通達する仕事だった。

    対するアサヒの営業マンは、「どぶ板」を駆けずり回っていた。

    卸はもちろん、酒販店、飲食店、映画館、各種劇場、競輪場、バー、キャバレー、風俗店などなど、ビールを扱うところには必ず訪問した。営業現場で人間関係をつくることで、6割のシェアをもつ強すぎるキリンに抵抗していたのだ。

    一般家庭から、アサヒは相手にされなかった。販売量の大半は、飲食店向けなどの業務用だった。当時のビール市場は、家庭用7割に対し業務用3割の構成比。このため、アサヒの工場は稼働せず、古いビールが流通在庫として滞留していた。

    そんな状態でも、なんとかしてキリンに対抗し、シェアの低下を防がなければならない。

    そのため、アサヒの営業担当者は酒販店に直接訪問し、一般家庭へ配達するキリンラガーが20本入ったビールケース(箱)の1本を、こっそりアサヒに差し替えていた。時には、1本どころか2本、3本を替えたり、大胆に箱の四隅の4本を差し替えることもあったそうだ。

    客先では「たまには違うのも入れておきました」などと、酒屋の配達員に説明してもらっていたという。

    ストリップの「顔」になった辣腕営業

    アサヒの営業は、「1箱」ではなく、「1本」を売るために動いていた。

    あるアサヒの辣腕営業マンは、土浦にあるストリップ劇場に朝から入り浸っていた。

    毎日かぶりつきに座り、最初は立ち売りのオジサンと、次に支配人と仲良しになり、楽屋への出入りを許されていった。

    そうして最終的には、彼はその劇場の「顔」のような存在になったという。まるで戦後の浅草における永井荷風のような、そんな存在にまで上り詰めるのだ。

    ロック座の踊り子に囲まれご満悦の永井荷風(1951年11月撮影)
    ロック座の踊り子に囲まれご満悦の永井荷風(1951年11月撮影)

    彼は楽屋で踊り子のお姉さんたちから「ボク」と呼ばれ、一種のアイドル的扱いをうける。

    ストリップ劇場の踊り子は多かれ少なかれ人生の辛酸を経験しているが、この営業マンは、そうした彼女たちの心の隙間に入り込んだ。

    「ボクって、アサヒビールの営業なんだ。なら、私達がビールを売ってきてあげるわ。ねぇ、みんな」

    「そうよ、一肌脱ぐわ」

    「なに言ってるのよ、もう脱いでいるじゃない私達」

    「そうか、アハハハ」

    実際にこんなやりとりがあったかどうかはさておき、こうして姉さんたちは行きつけの飲食店で「わたし、ビールはアサヒしか飲まないの。替えてちょうだい」と言ってくれるようになる。

    これが功を奏し、土浦においてアサヒのシェアが一気に上がったという。

    (ちなみにこの辣腕営業マンは、その後2010年にアサヒ飲料の社長となり、キリンビバレッジの社長に09年に就任していた前田仁のライバルとなる)。

    こうした一騎当千の営業担当者が、当時苦境にあえいでいたアサヒには大勢いたのである。

    それぞれが一騎当千の営業とはいえ、会社である以上はチームプレーが求められる。

    アサヒでは、営業担当者が日々の営業活動で得た、飲食店や酒販店に関する詳細なデータを共有する仕組みを作り上げていた。

    家族構成、経営者の趣味、最終決定権者(家族経営の店では「おばあちゃん」が決定権者というケースもある)、組合や町内会といった外部との人間関係など、代々の営業担当者が「足」で得た情報が、それぞれの支店内で共有されていたのだ。

    「シェアは落ちていましたが、4社の中で営業力はアサヒが一番強かったと思います。辛い環境は人やチームを強くするのです。現場は、みんなで知恵を出し合っていた」と、営業出身で後にアサヒビール社長になる荻田伍は、2014年3月筆者に語った。

    高いシェアに胡坐をかいて、営業活動をおこたっていたキリンの営業担当者と比べると、アサヒの営業担当者は、ノウハウにおいても、必死さにおいても、レベルが違っていた。

    スーパードライは、アサヒにとってまさに「乾坤一擲」の新商品だった。

    当時経営危機にあったアサヒは、スーパードライが売れなければ、会社が整理されてもおかしくない状況だった。

    実際、アサヒのメインバンクだった旧住友銀行において、「天皇」と呼ばれた最高実力者、磯田一郎(当時・故人)は、サントリーの佐治敬三社長(同)に、水面下でアサヒ売却を申し入れていたという。

    だが、サントリーにはその意思がなく、交渉は不調に終わっていた。84年半ばの出来事とされる。

    アサヒの社員は当然、経営トップレベルのこうした動きを知らなかった。

    当時アサヒの給料は安く、しかも会社がこの先どうなるのかもわからない状況だった。

    そんな中でもアサヒの社員は「みんな明るかった」と荻田は証言する。

    お金がないため、商品の市場調査は社員が街頭に立って手弁当で実施したという。

    スーパードライは、こうしたアサヒ社員の苦労の結晶だった。(つづく)

    永井 隆(ながい・たかし)

    1958年生まれ。フリージャーナリスト。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動を行う一方、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。 主な著書に『移民解禁』(毎日新聞出版)、『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『EVウォーズ』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)など。

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