経済・企業

「東大をはじめ一流大出身者ほど部長になれない」アサヒビール伝説の社長がそう断言したワケ

    なにかと話題の「東大生」も、実は意外に出世できない?(東大安田講堂=東京都文京区で2021年3月24日、中村琢磨撮影)
    なにかと話題の「東大生」も、実は意外に出世できない?(東大安田講堂=東京都文京区で2021年3月24日、中村琢磨撮影)

    「スーパードライ」大ヒットによって一変した業界地図

    「そのうち失速していく」

    1987年3月に発売されたスーパードライについて、キリンの本社は当初、こう読んでいた。

    ところが、失速どころか勢いは増していく。

    関東限定だった販売エリアは、4月中には中部、さらに関西圏まで広がり、5月中には沖縄を除く全国発売に切り替わる。

    「アサヒの攻勢を止めなければならない」

    卸までしか足を運ばなかったキリンの営業部隊は、ついに酒屋まで営業に赴くように変わる。

    とはいえ、どこに、何という酒屋があるのかさえ、多くの支店では情報をもってはいなかった。

    このため、職業別電話帳を元に営業マンがライトバンを飛ばして所在地を確認するなどで、まずは”酒販店マップ”の作成から取りかかっていく。

    なぜ最大手キリンは酒屋から嫌われていたのか

    その上で、酒屋への訪問を始める。

    と、「初めてキリンの方がみえた!」と驚かれることさえあったが、ごれはよい方。

    「今頃、何しにやってきた」と凄まれたり、「商売というのはだな……」と説教をされたり、なかには「塩をまかれました」という女子営業部員もいたという。

    キリンの営業マンは卸に対し「今週はラガーを、この数量で割り当てます」などと、通達するのが仕事で、酒販店までわざわざ出向くことなどなかった。

    当時売上げナンバーワンだった「キリンラガー」は「殿様商売」だった
    当時売上げナンバーワンだった「キリンラガー」は「殿様商売」だった

    酒販店では当然、売り上げトップのラガーを扱いたい。だが、その数量は限られていた。

    その限られた数量のラガーをどの酒販店に割り当てるかは卸の裁量にまかされた。

    繁盛している料飲店に酒類を納めているなど、売り上げの大きい酒屋を卸は厚遇し、少ない酒屋にはラガーの配荷量を絞った。

    ゆえに、厚遇されていなかった酒屋のキリンに対する怨嗟は、大きかった。

    勝ちながら弱くなっていたキリンと負けながら強くなっていたアサヒ

    「キリンは、客である酒販店から嫌われていました。でも、シェアが6割もあったから、営業をしなくとも、さらにはお客様から嫌われていても、商品は売れてしまっていた。しかし、営業が必須な居酒屋をはじめとする飲食店向けでは、ライバル3社に負けていました。営業力で」

    これは87年にキリンに入社し、関西方面で営業に従事した社員の証言である。

    経営危機に直面していたアサヒは営業マンが現場に赴き、酒販店や有力飲食店との人間関係を構築しながら、店の家族構成や決定権者などの情報を収集。

    蓄積された情報は、支店内で共有できる仕組みを作っていた。

    「スーパードライ」の大成功は、「どぶ板営業」をいとわないアサヒ社員の努力のたまものだった
    「スーパードライ」の大成功は、「どぶ板営業」をいとわないアサヒ社員の努力のたまものだった

    これに対し、”ガリバー”だったキリンは酒屋のマップづくりから始めたわけで、力の差は歴然だった。つまり、勝者は必ずしも強者ではないし、敗者は決して弱者ではない。キリンは勝ちながら弱くなり、アサヒは負けながら強くなっていた。

    それでも、高いプライドをもつ優良企業で、その中心組織である営業部門が、ゼロからの再スタートへと舵を切ったのは大きい。

    キリンは72年にシェア6割を超え、これ以上シェアを伸ばすと独禁法から会社が分割される心配があり、長らく本格的な営業活動ができなかった。

    ”ドライショック”により、そうした心配は消えていく。

    そればかりか、87年以降に入社したキリンの営業マンたちは、スーパードライという強力な敵と戦っていくことになる。

    一方、87年以降に新卒で入社したアサヒの営業マンたちは、先輩が味わってきた塗炭の苦しみを知らない。

    経営が安定してから入社した人材は一流大出身者でも部長になれない

    アサヒ会長になってからだが、樋口廣太郎は次のように話したことがある。

    「(80年代の)経営が苦しかった時代、アサヒは就活の学生に人気がなかった。このため、採用担当者は、体育大学や音楽とか美術の芸術系大学に通い、就職課にお願いして入社希望者を集めていた。しかし、スーパードライがヒットしてからは、一流大学の学生が入社するようになった」

    「もっとも、出世という切り口では、ドライ以前に入社した社員は部長になれるけれど、以降は出世競争が厳しくなる。サラリーマンとは難しいものだ」

    「一流大卒は出世できない」そう看破したアサヒ「伝説の社長」故・樋口廣太郎
    「一流大卒は出世できない」そう看破したアサヒ「伝説の社長」故・樋口廣太郎

    キリンのヒットメーカーは「消費者のニーズ」をどのようにとらえていたか

    キリンの前田仁は、2003年4月に自身でまとめた『思考の技術』という草稿のなかで、スーパードライのヒットについて、こう記している。

    『お客様の意識(イメージ)と実際の味の好みとにズレがあることがわかっています。(中略)スーパードライの成功要因の一つは、このズレを、企んだのか偶然の産物なのかわかりませんが、巧く利用したことです。イメージはドライという名前が示す通り男性的で本格的、しかし、味はそれまでの主流であるラガーよりも軽く、ノンビターで飲みやすい。(中略)「お客様の実際の嗜好トレンドはライト化、しかし商品に求めるイメージは本格的」。(中略)。この「ズレ」を認識することが、お客様理解であり、ヒット商品を生み出すコツの一つだと考えています」

    「ハートランド」「一番搾り」など今でも定番のキリン商品を開発した「伝説のマーケター」前田仁(ひとし)
    「ハートランド」「一番搾り」など今でも定番のキリン商品を開発した「伝説のマーケター」前田仁(ひとし)

    ちなみに、この草稿は、社内外での自身の講演などのために作成されたが、外部には出ていない。

    85年には専売公社がJT(日本たばこ)に、電電公社がNTT(日本電信電話会社)に、そして87年4月には国鉄はJR東日本などに民営化されていた。

    規制緩和の波が押し寄せ、酒類の販売免許も緩和されていくのは予想の範囲だった。

    スーパーなどでも酒を自由に販売できるようになれば、酒屋の独占性は喪失される。

    キリンを支えた酒販店によるラガーの宅配システムも、崩壊してしまう。

    高いシェアに隠れて顕在化していなかったが、深刻な危機は、静かに、だが確実に近づいていた。

    とりわけ、他社から遅れをとっている業務用、すなわち飲食店向けの営業力を整備する必要に、キリンは迫られていた。

    居酒屋チェーンをはじめ、ファミリーレストランなどの外食が、高い成長を続けていたのだ。

    本社エリートは「世渡り上手」だが、役にはたたない?

    原宿の神宮前交差点近くにあるビルの地下一階に、大皿料理店「DOMA」がオープンしたのは87年10月9日だった。

    キリン直営店だが、ビアホール・ハートランドと同様に「キリン」の看板を掲げていなかった。

    80年代にキリンがてがけていた直営レストラン「DOMA」。原宿は神宮前交差点近くのビル、その地下一階にあった。
    80年代にキリンがてがけていた直営レストラン「DOMA」。原宿は神宮前交差点近くのビル、その地下一階にあった。

    ただし、二つの店には違いがあった。前田が初代店長を務めた六本木のハートランドは、ビール事業本部のなかのマーケティング部によるプロジェクトだった。

    これに対しDOMAは、外食事業開発という部門が手掛けていた。

    80年代に入りキリンが着手していた医薬などと同じ多角化事業の一つに外食があり、ビール事業本部とは別組織だった。

    しかし、同年4月にハートランド店長を辞していた前田が、DOMAもプロデュースしていた。

    160席を有したDOMAだが、表のコンセプトは「モロッコのマラケシュ感覚の市場居酒屋」。裏コンセプトは「女の居酒屋」。

    裏コンセプトは社内外において公にはしなかったが、前田は常に意識していたそうだ。

    表と裏と、二つのコンセプトを設定するのは、前田ならではのテクニックだろう。

    DOMA初代店長は真柳亮だった。

    79年に入社し、桑原通徳が支店長を務めていた神戸支店で営業に従事。三宮のジャズバーなどの営業で成果を上げ、85年に本社の事業開発部探索担当に異動した。

    「本社に来て驚いたのは、みんな一流大学出身なのに、世渡り上手な奴ばかりということ。自分の出世しか頭にない。そんななか、前田さんは自分の意思を持っていた。組織の垣根を平気で越えてやって来る。前田さんか、もうひとりのどちらかが20年後に社長になれば、キリンはきっとよくなると思いました」と、2019年にキリンを退職した真柳はいま、しみじみ話す。

    真柳は2年間、専任で店長を務める。DOMAの運営経験により、飲食店への営業力を身につけていく。

    永井 隆(ながい・たかし)

    1958年生まれ。フリージャーナリスト。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動を行う一方、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。 主な著書に『移民解禁』(毎日新聞出版)、『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『EVウォーズ』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)など。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

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