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父子相伝「芸能の奥義」を手渡された 息子だけが知っている なかにし礼、最期の闘い/下
なかにし礼さんの子息(音楽プロデューサー)が、父の生きる闘いを明かす特別寄稿の後編。かつて兄の借金に苦しんで死の淵に追いやられながら名曲を次々と生み出していったなかにしさんは、息子にとってどんな存在だったのだろうか? そして父から息子に授けられた芸能の神髄とは? 肉親の目が捉えた、なかにし礼の生々しい姿。
2020年12月23日未明、病院から電話があり、家族に招集がかかった。最後に会った夜が危ないという話をよく聞くがその通りで、やはり来たかという思いと、今夜は大丈夫と言ったじゃないか!という感情が入り乱れ、再び病院へ。到着して集中治療室へ急行して父と対面したが、当直医からたった今、脈が止まったと聞かされた。担当医の診断を待つように言われ、15分ほどその場にいた。
父はそこに寝ている。だがもう魂はない。なかにし礼ならではの表現を生み出す霊感はない。平和のためのメッセージを語ることもない。父の表現を借りると、そこにあるのは中西禮三という82年間使われてきた「ボディ」にすぎない。
サンデー毎日編集部から、父・なかにし礼について書いてほしいという電話をいただいたのは、ちょうど火葬場で父が荼毘(だび)に付されている最中だった。父が長年お世話になった週刊誌である。私も一度だけ紀行文を書かせてもらったご縁もあるので、断る理由はなかった。著名人が亡くなると、親族や関係者がその思い出を振り返り、本にまとめることがしばしばあるので、そういうオファーはあるかもと思っていたが、この機会に父と、自分の気持ちと向き合うという意味でも、ありがたい話だ。
生前から父は、冗談とも本気ともつかない口調で楽しそうに言っていた。
「俺が死んだらお前が本を書くだろうから、どうせなら生きているうちに書け。生きているうちに親族が書いた例は今までないし、俺が宣伝してやるから、いいじゃないか。そうだな、タイトルは『作家の息子はつらいよ』でいこう」
もちろん父の検閲が厳しくなりそうなので、「息子による評伝・なかにし礼」の執筆は控えたが、今こうしてパソコンに向かっている私を見て、父はどう思っているだろうか。 子供の頃、父と遊んだ思い出はあまりない。当時、父は実の兄の存在に苦しめられ、莫大(ばくだい)な借金を背負わされ、修羅の中にいた。その頃のことを父は、村松友?さんに後押しされて書いた最初の小説『兄弟』や、食道ガン闘病中に書いた最後の小説『夜の歌』で振り返っている。
《私が倒産したことはでかでかと報道されていたから、どこの不動産屋も家を貸すことを拒んだ。しかたなく、私と妻は一歳の長男を連れてホテル住まいをした。
ほどなく街の噂も下火になった頃、家を借りた。しかし、どこに住んでいても、悪質な金融業者の取り立て屋がしょっちゅう家のチャイムを鳴らす。電話はひっきりなしに鳴る。あまりにうるさいので、電話線を抜いてしまったくらいだ。赤坂にしばらく、青山にしばらく、目黒にしばらく、と私たちは転々と住まいを変えた。(中略)
毎日の生活があまりに落ち着かないので、妻と長男を大阪の池田の実家にしばらく預かってもらうことにした》(『夜の歌』)
死を覚悟するほど追い詰められる
大阪の母の実家に預けられたり、東京に戻ってきたり、不思議な日々だったが、子供の私は自分の境遇に疑問を持つこともなく、普通に生活していた。父と会うことは少なかった。遊んでくれる時はだいたいキャッチボール。子供相手でも容赦せずに投げ込んでくるのが怖かったが、遊んでくれることが嬉(うれ)しかった。
父は、家にいる時、いつも怖い顔をして考え事をしていた。ソファに寝転んでいる時も険しい顔だったので、近寄れない。母は「お父さんは仕事中だからね」と言うのだが、大人はソファで怖い顔をして寝るのが仕事かと思ったほどだ。当時の父が、私の想像を超える苦悩のなかにいたことを知るのは、父の作品を読んでからだ。《悔しい。悔しすぎる。死ぬほど悔しい。
いっそ死んでしまおうか、という誘惑的な思いが絶え間なくつきまとうようになった。 妻に長い手紙を書いた。
「俺たちの汽車は長い長い、暗いトンネルに入ったまま、抜け出せないでいる。俺は死ぬかもしれない。その時、お前、ついてきてくれるかな。それとも、お前、子供と一緒にこの汽車から降りてもいいんだよ」
妻の返事は、
「光があろうとなかろうと、私は終点までついていくつもりよ。でも、あなたは死んではいけないわ。あなたにはするべきことがまだまだたくさんあるはずだから」 この手紙を読んで、私は死ぬことをやめた。そのかわりこの歌を書いて、私の中の「死にたいと思う心」に死んでもらった》(『夜の歌』)
「この歌」というのは、その後、美空ひばりさんが歌うことになる「さくらの唄」である。この歌は大ヒットはしなくても、父にとっては特筆すべき作品だったと思う。母の「あなたにはするべきことがまだまだたくさんあるはず」という言葉で父は死を思いとどまった。そして「死にたいと思う心」すら作品に昇華し、生死を思うまま行き来する「芸能の奥義」に向かったのではないだろうか。
父は今年の1月からサンデー毎日で、「我が歌 我が人生」という新連載を始める予定だった。自分が書いた曲を一つずつ取り上げて、それがどんな時代のどんな自分によって生み出されたかを見直していくつもりだったようだ。様々な曲についての物語が死によって読めなくなったことは、息子としても惜しまれてならない。
それにしても当時の父が死を覚悟するほど追い詰められていたとは。その一方で、とんでもない数の詩を書いていた父は、いつもそばにいて遊んでくれる普通のお父さんではなかったが、ギリギリの限界状況のなかで家族と私たちの未来を守ってくれる、やはり凄(すご)い人だったのだ。
すべての行動が常に本気の人だった
そんな少年時代を送り、大人になりかけた時、小遣い欲しさもあって、父の携わる舞台でバイトさせてもらうようになった。当時、父はオラトリオ「ヤマトタケル」やオペラ「ワカヒメ」、「静と義経」など、舞台の脚本や演出に力を入れていて、そのお手伝いとして現場に向かうようになった。父の付き人としてではなく、父が30年来付き合ってきたスタッフの会社の一員として、関係者への弁当配りから始めさせられた。父はきっと「息子を特別扱いするな」と言っていたのだろう。そういう日々があったから、変なドラ息子にならずに済んだと思っている。上に挙げた舞台はいずれも、芸能というもの自体がテーマとなった作品でもあり、それらのお手伝いをさせてもらっているうちに、いつしか私は演劇に強く魅(ひ)かれるようになっていく。そして、日本大学芸術学部演劇学科から東宝株式会社の演劇部へと道を歩むことになった。でも元々は芸能の仕事には興味がなく、それどころか毎日怖い顔をして緊張感しか感じない日々を送っていた父を見て、芸能の仕事にだけは就きたくないと考えていた。ところが生で人々に訴える演劇やコンサートの素晴らしさ、そして終わった時の達成感を知ってしまい、自分の道はそこにしかないと思うようになったのだ。父からはこうしろああしろとは一切言われていないが、やはり容赦のないボールが私に投げられていたのだと思う。生の表現の素晴らしさを感じろ、と。
私はこの頃から父親を「お父さん」と呼ぶことが少なくなり「礼先生」と呼ぶようになっていった。
東宝にいた10年間に、一路真輝さん主演ミュージカル「キス・ミー・ケイト」(訳詩)と松坂慶子さん主演の「奥さまの冒険」(作・演出)に携わらせていただいた。東宝では演出助手を仕事にしていたので、演出家なかにし礼の助手というのはなかなか照れくさいものだった。ただ父が、この「奥さまの冒険」という父の作詩した作品をちりばめた和製ミュージカルに私を関わらせたのは、なかにし礼の作品を息子にしっかりと知らせようとしたのだと思う。
その後、私はTBS系列の音楽出版社・日音に転職した。今いる会社なのだが、この会社はまだ著作権ビジネスが今ほど盛んではなかった頃から音楽出版社のパイオニア的な存在の会社で、父の作品もほとんど管理している。ここでも特に父親の作品の管理をするわけではなく、新人発掘やイベント制作などの地道な仕事をしている。
この頃から父親の仕事に付き添うことが増えてきて、様々な現場を身近で見させてもらった。といっても、はっきりいって雑用係。思い立ったらすぐ行動!が信条の人だったので、連絡は突然飛んでくる。「康夫! 時間がある時にあれやっておいて」。素直に、時間がある時に対応しようと思っていると、数十分後に再び電話。「あれできた?」。こっちにも会社の業務があるのに、そんなことはお構いなしなのだ。すべての行動が常に本気の人だったので、私も本気で受け止めないといけない。これも幼少の頃に家で感じていた緊張感の発信源の一つだったのだろう。
生死を超えるコミュニケーション
父を亡くして痛感するのだが、キャッチボールは幼少時の野球のボールだけではなく、言葉や仕事など親子間でたくさん行われていたのだ。日々の仕事での急な連絡や突然の呼び出し、対応に苦慮するような高いレベルの要求は、すべて父からの豪速球のボールだった。それに気づいたのは、死去のリリースを出した際に親族のコメントを書いた時だ。今までは私が何か文章を書いたりすると、必ず感想をくれた父だったが、当然のことながら、今回はそれがない。ダメ出しはプレッシャーだし言い負かせるわけもないけれど、父からのボールが返ってこない空虚感に今は苛(さいな)まれている。やはり検閲など気にせずに生前に書いておくべきだったかと後悔にも似た感情も生じてくる。
父は今回は死ぬ予定ではなかったと思う。2012年に食道ガンを伝えられた時、そして2015年に食道ガンの再発を伝えられた時、どちらも父がいなくなった後を考えさせられる会話をした。仕事も整理し連載小説も途中で絶筆覚悟だった。でも今回は新連載の準備もしていたし、未発表音源のリリースも企画していた。父がいなくなった後の話など何もしていない。
母から話を聞く限り、昨年は入退院を繰り返し、家でも調子が悪いことが多かったようだ。「子供たちに心配させるな。心配してもらったから良くなるわけでもない」と言っていたそうだが、最期までカッコ良く強い父親でいたかったのだろう。もちろん私の中では、いつまでもカッコ良く強い父親しかいない。
そういう意味で病院に横たわっていた父は、父であって父ではなかった。今でも突然電話が掛かってきて何か頼まれそうな気がする。仕事が忙しくて帰ってこられないだけのような気もする。あるいはどこか遠くへ旅行に行って楽しいことを考えているのかもしれない。平和を愛し自由に生きてきた人なので、今は現世を憂えながらも、思いっきり羽根を伸ばして飛翔(ひしょう)しているのだろう。そう思うことが今の私に唯一できることだ。
そして私がこうして父のことを書いた文章について、感想を聞かせてもらえる日が楽しみだ。芸能の世界では生死を超えるコミュニケーションが自在にできるはずだから。
(音楽プロデューサー・中西康夫)