週刊エコノミスト Online サンデー毎日
息子だけが知っている なかにし礼、最期の闘い/上
平和をおびやかす権力者に抵抗する
日本中に悲しみをもたらした、なかにし礼さんの死から3カ月。小社からは遺稿集『愛は魂の奇蹟的行為である』が刊行された。病と闘い、平和を侵す勢力に立ち向かったなかにしさんの晩年を、最も身近に接してきた子息の音楽プロデューサー・中西康夫氏が、万感の思いで綴る―。
病気に立ち向かう
父が死んだ。病気には苦しめられた人だったが、そのたびに何度でも帰ってきたので、今回もギリギリまでいって帰ってくると思っていた。でも、そうではなかった。死の到来はあっという間だったし、なんだか感情をふるわせるいとまもなかった。
亡くなる前日の昼過ぎ、家族で急いで来るように、病院から呼ばれた。それまでにも危ない場面は何度もあったそうなのだが、今回は初めての家族招集。いよいよかな?とも思ったが、どこかに、それでも帰ってくるからこの人は凄(すご)いよなぁ……という気持ちもある。説明のつかない心持ちで病院へ向かう。
集中治療室に着くと、父は寝ているようにしか見えない。脈と血圧が相当下がったらしく、それで私たちは呼ばれたのだが、家族が来たら持ち直したという。意識がないように見えても、ちゃんとわかっているのだろう。
担当医から、もってあと数日ではないかと説明を受け、家族は絶望的になっていた。私はどうもそうは思えない。今回も、こちらが諦めた頃に復活するのだろうという気がしていた。
コロナ禍なので集中治療室での面会は基本的にはNGなのだが、特別に一人ずつの入室を許可してもらい、父と対面した。何も話をしない父。こちらが話しかけても反応もしない父。いつも強くシャキッとしている父が、苦しみながら病気と必死に闘っていた。応援することくらいしかできない自分の無力が悲しい。担当医の説明では今夜は大丈夫だろうとのことだったので、帰途についた。コロナ禍でなければ病院にいてくれと言われたのかもしれないが、とにかく一度帰宅だ。
家に着いた頃に妹からメールが来る。「今日お父さんと会えて整理がつきました」。妹は諦めたのか。だけど整理ってなんだろう。父の命の火は消え入りそうになりつつもまだ灯(とも)っているわけだし、整理するとかしないとかいう話ではないと思うのだが。ちなみに、整理という意味では、私はまだついていない。この文章を書きながら、そのことを感じている。
去年の11月14日に私の車で父を病院に連れていった際、今まで一度も見たことがないほど弱った姿だったから、ある覚悟のようなものがあったのは確かだ。だが、妙な話だが、父が死ぬことを受け入れ、気持ちの整理がつくのは、きっと父の死後かなりの時間がかかるものだろうという、先を見透すような思いにも同時にとらわれていた。そして、家族がそんなことを考えていても、最後には帰ってくるのが父だとも思っていた。
これが今生の別れになるかもしれない
父は2012年に食道ガンになった。それがわかった日、私は仕事で大阪にいたので電話で告げられたのだが、元気そうな声と前向きな話ばかりだったので、特に大事だとも思わずにいた。だが、後日発刊された本を読み、父が内心では絶望的になっていたことを知った。持ち前の探究心で自分に合った治療法を探し続けた父は陽子線治療と出会い、寛解して無事に帰ってきた。だがこの時の記憶はあまりない。「子供たちに心配させても治るわけじゃない」といつも言っていたので、詳しい病状をあまり教えてくれなかったし、聞いても先進医療について知見がなかったので、ピンとこなかった。ステージ3か4の間だったとか、心臓に負担がかかるから手術はできないので違う方法で治療するといった話をチラチラ聞く程度で、差し迫った病状だったことは後から知ったのだった。
再び食道ガンに侵されたのは2015年。お酒も控え、無理をしない生活で節制していた父は、再発した時はかなりショックだったようだ。一度目と違い、陽子線はもう使用できない(同じ場所には照射できる回数が決まっているそうだ)。心臓に重い持病を持つ父が手術を受けることは、かなりの覚悟がいったことだろう。それは手術が決まった際に携帯のメール履歴などをすべて消したことからもわかる。手術当日も、二人きりになった時、いままでまったく知らなかった話を聞かされた。この手術ですべてが終わってしまう、そんな空気が漂う手術前の時間だった。
父は手術室に徒歩で向かっていく。家族は笑顔で見送った。「いってらっしゃい」。私はその一言だけを言い、手を振った。手を振り返し踵(きびす)を返して手術室へ入っていく父。あの後ろ姿は忘れられない。これが今生の別れになるかもしれないと私も思っていたからだ。
予定の時間を過ぎても手術はまったく終わる様子がない。こちらが不安を感じ始めたその時、医師から別室に呼び出された。
ガンを取り除けない、気管にガン細胞がべったりと張り付いていて、これを取ると気管を傷つける。気管を傷つけたら一巻の終わりだ。これほどまでに気管に張り付いていたとは思わなかった――手術を成功させる自信があったという医師は、憔悴(しょうすい)して肩を落としている。どうするべきか家族の意思を確かめに来たのだ。このままガン細胞を取り除くのを諦めるか、それとも無理やり剝がしにいくのか。私は、とにかく生きて戻してほしいと医師にお願いした。無理やりガンを気管から剝がし、失敗して死んでしまうよりも、あと数日でも生きていてほしいと思ったからだ。医師はこのまま戻したとしてもガン細胞が侵食して気管を穿破(せんぱ)してしまうだろうと言った。もって2週間だ、と。それでも今死んでしまうよりはいい。
「平和の語り部」としての存在意義
父は2週間の命をもらって帰ってきた。そこから父は、2週間を使って動いた。穿破はいつ起きるかわからない。いつ爆発するかわからない爆弾を抱えているようなものだ。それでも座してその時を待たずに行動する父は、やはり普通の人ではなかった。いつその時が来てもいいように、葬儀の段取りからお別れの会の葬儀委員長のお願いまで済ませた。そして追悼盤のような『なかにし礼と75人の名歌手たち』というCDを作ることにした。リリースの時は死んでいるという前提だ。こんなことまで考える人はあまりいないだろう。父は自分の最後の時間をプロデュースしようとしていたのである。
だからといって死を待っているわけではない。効いたら御の字という気持ちで抗ガン剤治療を行った。医師も一日でも長く生きてもらうために抗ガン剤を勧めた。父のまわりの誰もが、一日単位の命を考えて時を過ごしていた。私も父と会う度に「これが最後だ」と思って別れていた。
ダメ元で始めた抗ガン剤が奇跡的に効いてガン細胞が縮み始めた。穿破の心配はまだあるが、ひょっとしたらもっと生きられるかもしれないという希望が出てきた。すると父は、なんと連載小説を書きたいと言い出した。余命2週間だった人が連載小説? 普通では考えられない話だ。どういう見通しなのか、『サンデー毎日』編集部もOKしたという。「途中で死んだら?」「『それも文学的でいいじゃないですか』と担当編集者に言われた」と父は笑いながら話していた。
それが父の最後の小説『夜の歌』だ。今では大作として普通に出版されているが、連載開始の時点では私も最後まで書き切ることができるとは思っていなかった。抗ガン剤が効いたことはもちろんだが、この自伝的な連載小説を完成させるべく創作の炎を燃やし、自らの軌跡を時代のなかで見つめ直しながら書いていくという行為によって、ガン細胞を弱らせたのだと私は信じている。おかげで2週間の命がその後、5年もったのだ。「穿破の心配はもうありません」と言われた時の父のドヤ顔が忘れられない。あとは弱ったガン細胞をあらゆる手を使って叩(たた)いて消し去った。父の恩師でもある元ポリドールのディレクター松村慶子さんに父の病状を報告した時に言われた、「大丈夫! 礼ちゃんは不死鳥だから!」という言葉通りだと思った。結局その後ガンの再発はなかったわけだから、父は完全にガンに打ち勝ったと言えるだろう。
病を得てからの父は、それまでとは別の貌(かお)を見せるようになった。新聞、テレビ、ラジオで、また講演で、対談で、平和の大切さを語り、憲法をないがしろにして戦争への道を開きかねない政治に強い口調で異を唱えるようになったのだ。今度、毎日新聞出版から、父の晩年のエッセイや詩を集めた遺稿集『愛は魂の奇蹟的行為である』が刊行されたのだが、その巻末の「紙上お別れ会」で、保阪正康さん、青木理さん、伊藤彰彦さんをはじめとする方々が、「平和の語り部」としての父の存在意義をそれぞれの視点で書いてくださって、私も様々なことを教えられた。息子から見ると、父が戦争体験と平和へのメッセージをあそこまで意識的に語るようになったことには、三つのことが関係しているように思う。
すべての戦争犠牲者を自分に重ねる
一つは、これまでの戦後日本の常識を踏まえた自民党政権とは異質な安倍政権ができて、好戦的で独裁的とも言える政治を行うようになったこと。安倍政権の下での社会の空気に、父が強い危機感を抱いたのは間違いないと思う。そして、自分の死が遠くないことを悟った父が、命というかけがえのないものと向き合い、いま発言すべき本音を語ろうと考えたこと。もう一つは、『夜の歌』執筆にあたり、自らの筆舌に尽くしがたい戦争体験、引き揚げ体験を仔細(しさい)に振り返り、人間が人間でなくなる戦争というものの恐ろしさを再認識したこと。
『夜の歌』の終章に、父が、満州から引き揚げて初めて日本の土を踏んだ子供の頃の自分自身と対面する場面がある。父は自分のことを「少年」と客観的に呼び、戦争体験者全員とつながり合うようなイメージで描いていくのだ。《私はどっと涙を流して泣いた。少年も泣いた。たまりにたまっていた涙がとめどなく流れた。
大陸で死んでいった大勢の子供たち。また大地の子として生きざるを得なかった子供たち。広島で長崎で、原爆の子として生きた孤児たち。あの戦争で死んでいったすべての子供たちを、私は涙とともに抱きしめた》(『夜の歌』)
平和が踏みにじられようとしているこの時代に「平和の申し子たちへ―泣きながら抵抗を始めよう」と呼びかけた父の真意は、ここにあるような気がする。父は、命からがら引き揚げてきた少年の日の自分を涙とともに抱きしめ、そこにすべての戦争の犠牲者を重ね合わせた。そのことを人間的な原点として、平和をおびやかそうとする動きへの怒りを新たにしたのではないだろうか。(以下次号)
(音楽プロデューサー・中西康夫)