中国 谷川俊太郎を愛する中国人=辻康吾
日中関係というとすぐに領土問題とか経済的利害の話になる。それが重要であることはもちろんなのだが、国家とかお金の話は別として日中関係全体を眺めわたすと、また別の風景が見えてくる。『三万年前的星空』(2018年、江蘇鳳凰文芸出版社)も、谷川俊太郎の詩集『私』の中日対訳版として台湾で出版され、その後中国国内でこのタイトルで出版されたものである。中国では毎年5000点の日本関係図書が出版されており、専門書からファッション、探偵小説、漫画、料理本まで、多くの中国人が読書を通じて日本に接している。この『三万年前的星空』もその中の一冊だが、私がとくに注目したのは、同書の翻訳者である田原(でんげん)氏の経歴と、そのきめこまやかな翻訳作業であった。
田氏は1965年河南省生まれ、河南大卒業後日本に留学、そこで出会った谷川俊太郎の作品に感銘を受け、その後日本に残り、谷川俊太郎の研究、作品の翻訳を続け、同時に自分も詩人として10年には第60回H氏賞を受賞している。現在は城西国際大学客員教授として研究、詩作、翻訳につとめている。同書序文で田氏は谷川の詩について「平易な言葉で深刻さを示し、簡潔な言葉で複雑さを示す。その叡智と理性の中からユーモアが透け、自嘲と自省の中から読者に限りない深い思考と回憶を促す重大な命題を与える」と述べている。
作詩だけでなく、絵本、童謡、脚本、翻訳など多岐にわたる谷川俊太郎の活躍に日本で多くのファンがいるだけでなく、欧米でも評価されているが、台湾版の同書も売れ行きがよいと言われるように、谷川俊太郎のソフトパワーは国境を、文化の相違を、あるいは国家の対立の壁を軽々と超えて広がっている。
文学作品、とりわけ詩を、さらに言えばその翻訳の評価は軽々しくすべきものでないが、翻訳の仕事に多少は関わる私としては、田原教授の日中両言語に通じ、さらに機械的対応にとどまらない、両言語がそれぞれに持つ、その社会、文化、美感覚をなんとか結びつけようとする努力に敬意を表したい。谷川の作品が担う絶妙な日本の現代文化の陰影が田教授の名訳を通じて無事中国の読者に伝わることを願っている。
(辻康吾・元独協大学教授)
この欄は「永江朗の出版業界事情」と隔週で掲載します。