追悼・小林亜星さん「天国で貫太郎一家 にぎやかに再会を」岡崎武=サンデー毎日
ふくよかで愛きょうのあるルックスで数々の名曲を遺した〝巨星〟小林亜星さんが逝った。小林さんは1974年にスタートしたTBSドラマ「寺内貫太郎一家」の主演だった。『サンデー毎日』は2015年、「貫太郎一家」出演者の座談会を行った。当時、司会進行を務めた岡崎武志氏に追悼の意を込めて寄稿してもらった。
小林亜星さんの訃報をテレビで知り衝撃を受けた。88という享年に不足はないだろう。そうではなく、私は1年半前に本誌(2020年1月5・12合併号)でインタビューをしている。
「健康法」というテーマだったがお元気そのもので、「終活」も「そういうのがイヤでねえ。まったく考えないし、何もしないんです」という話をされていた。
しかも「病院が好きで、検査や入院がまったく気にならない」とおっしゃるではないか。父親が医師で、自分も大学は医学部を選択するも、音楽に夢中になり経済学部に転部。医師にはなりそこねたが、病院好きの偉大なポピュラー音楽家を生んだ。
「人間ドック」入りも正月の恒例とし、血圧も毎日自分で測る。1年半前の時点で、およそ「衰え」や「死」から、相当遠く離れている印象を受けた。1年半後の訃報に衝撃を受けたのは、そういう理由だったのだ。ユーモアたっぷりのあの快活で元気なお姿が、今でも目に焼き付いている。改めてご冥福を祈りたい。
1957年生まれで、小さい頃からテレビっ子だった私は、亜星さんの音楽に包まれて成長してきた。「ワンサカ娘」(レナウン)、「どこまでも行こう」(ブリヂストン)などCMソングは、作者知らずで耳になじみ、「狼少年ケンのテーマ」「魔法使いサリーのうた」とアニメ主題歌は童謡のごとく歌ったものだ。
長じて酒を飲むようになってからは、京都や大阪のサントリーバーで「ホワイト」(「オールド」は高嶺(たかね)の花)を飲みながら、頭の中では「人間みな兄弟~夜がくる」の男性スキャットが流れていた。そして「北の宿から」に代表される数々の歌謡曲たち。
これだけ多彩に広範囲の分野で耳になじむ音楽を作り出した人は小林亜星以外にはいない。申し分のない音楽家人生ではなかったか。
しかし輝ける栄誉や名誉に対しては恬淡(てんたん)だったようだ。先のインタビューで事務所へうかがった時、入った部屋の片側に数々の受賞歴を示すトロフィーや盾が並んでいたのを、「それを背景にして僕の写真を撮らないでくださいね。気恥ずかしいから」とカメラマンに言った。席もその反対側の壁を背に座られた。私はそのことに感心した。
そして2015年には、本誌シリーズ企画「昭和のテレビ」で「寺内貫太郎一家」座談会が実現した。小林亜星、樹木希林、左とん平、西城秀樹、浅田美代子と豪華出演陣が顔を揃(そろ)えた。3名ぐらいの座談会は過去にもあったようだが、このメンバーによるのは初めて。この日、この時間しかスケジュールが合わず、針の穴を通すような奇跡の会であった。
秀樹の歌唱力を高く買っていた
この時、進行と構成の役をあずかったのも私で、ライター生活30年の中でも指折りの幸福な仕事だった。会場に一番乗りしたのが亜星さんで、挨拶(あいさつ)をさせてもらった時、「いやあ、(ドラマ終了後に)このメンバーで顔を合わすのは初めてですよ。ありがとう」と礼を言われたので恐縮してしまったのだ。私こそ、今目の前に、あの貫太郎がいて、きんばあちゃんがいて、周平がいてミヨちゃんにタメさんがいる。1970年代、一視聴者として夢中になっていたドラマの現物がいる。その興奮たるや、10代だった私にタイムマシンで過去へ戻り、「お前は約40年後に、この人たちに会うよ」と教えたい気がした。
この座談会がもう一つ「奇跡」となったのは、信じがたいことだったが、2018年の1年間のうちに、出席者の3名が相次いで故人となられたことだった。
左とん平 2月24日
西城秀樹 5月16日
樹木希林 9月15日
雪崩を打つごとく訃報が連打され、つい3年前、みなさんの元気な顔、元気な声で楽しい2時間を過ごさせてもらったのにと、柄にもなく無常を感じた次第である。出席者のうち生き残っているのは浅田美代子さんただ1人。貫太郎の妻・里子役の加藤治子さんは15年11月2日に逝去され、出席も記事を読んでいただくことも叶(かな)わなかった。
先の3名の死でもっとも驚いたのが西城秀樹さんだった。享年は63だから若すぎた。01年に脳梗塞(こうそく)を発症、11年の3度目の発症時に半身麻痺(まひ)と言語障害の後遺症を負い、リハビリに健闘中の座談会出席となった。
始終ニコニコと笑みを絶やさず、「それにしても懐かしいなぁ。何だか今日は同窓会みたいだ」と、この顔合わせをもっとも喜んでいたのも西城さん。コロコロと明るい笑い声は今も耳に残っている。
ドラマの名物だった貫太郎と周平の親子格闘シーンで、庭へ突き飛ばされた西城さんが腕の骨を折った事件は有名だ。当時、西城秀樹人気の過熱については、骨折事件の折、小林亜星さんの元へファンから「お前の大事なとこ、ひっこ抜くぞ」などの手紙が届いたとか。
「スタジオに行くのは楽しかった。歌の世界にはないことだったから」との西城さんの発言に、親が子どもを見るように亜星さんはうなずいていらした。
その西城秀樹さんの「音楽」を誰よりも高く買っていたのが小林亜星さんで、先の「健康法」インタビューでもその点を力説されていた。西城さんの音楽はロックそのもので、歌唱力についても「あれだけ歌える人は日本にいませんよ」と絶賛されていた。インタビューではテーマとずれるため生かせなかった。そのことを今、悔やんでいる。 座談会後半の亜星さんの発言を引く。
「何だかみんな家族みたいで楽しかった。当時のTBSって、まだ赤坂のど真ん中にあったでしょ。撮りが終わったら飲みに行って、自然に仲良くなったよ」
その中心にいつも、大仏のごとく貫太郎こと小林亜星さんがいた。ドラマが始まった頃、まだ41歳。おばあちゃん役の希林さん(当時は悠木千帆)にいたっては31歳。ミヨちゃんは18歳と、誰もかれもが若かった。そのほか、脇で光る伴淳三郎さん、由利徹さんも天国へ。
亜星さん、どうやらあの世の方がにぎやかで楽しそうじゃないですか。
おかざき・たけし
書評家・古本ライター。1957年、大阪府生まれ。著書に『上京する文學 春樹から漱石まで』(ちくま文庫)、『読書の腕前』(光文社)など