追悼 立花隆は歴史に呼ばれて、この世に生まれてきた 世代の昭和史/40=保阪正康〈サンデー毎日〉
共通の歴史体験は世代を形成し、世代はまた相通じる歴史観を生み出していく。現代史研究の第一人者が世代論によって昭和史を見つめ直す注目連載。今回は、人間と社会、生命と宇宙の森羅万象に迫ったジャーナリスト・立花隆の死に向き合い、その仕事を戦後民主主義世代の突出した表現として位置づける、保阪氏ならではの追想―。
「世代の責任」を生きた世界史的スケールの知性
この連載における世代論の試みは、①大正10年代生まれ②昭和6、7年生まれ③昭和14、15年生まれ、そして④昭和22、23、24年ごろの生まれの世代を対象に、時代は彼ら世代にどのような要求を突き付けたかを見てきた。無論、この他の世代にしても戦争の影響や時代が彼らに過酷な生き方を強いたであろうことは十分に想像できる。しかし日本社会にあっての世代論には、やはり戦争が大きな影を落としていることがわかる。戦争によってそれぞれの世代は、その年齢に相等しい体験を強いられたことがわかってくる。
そこで今回から、それぞれの戦争体験を経た世代が社会の中軸になったときに、その社会はどのような特徴を持つのか、そのことを改めて考えてみたいのである。日本社会の一つの特徴は、戦争になればその時代は戦時一色になってしまい、平時の思想や哲学、思考方法などはすべて否定されていく。国家総力戦といった語が代弁しているのはまさにそのことである。戦時下の日本社会にあっては、自由とか民主主義とか、あるいは平和といった言葉などはすべて、「非国民」の用いる表現である。なんのことはない。平時の社会の倫理、思考、発想などは許されざる語であった。いわば単一社会を作るのである。それが膨大な国民的エネルギーを生む源泉だというわけである。
第二次世界大戦を見てみれば、日本、ドイツ、イタリアの三カ国はこうした形で戦時体制を組んだ。枢軸体制とはそのような体制だったのである。ところがアメリカやイギリスなども、無論、戦時社会であることを否定しているわけでなく、ファシズム勢力との対立、対決を克服しなければ平和はこないといったキャンペーンを連日、大掛かりに組んでいる。その半面で民主主義体制の権利も保障して、「戦争の時にモラルや道義心を保持することは今の時代の特徴で、我々は基本的には民主主義を守るのである」といった了解事項を崩さないように心配りをしている。国家、社会を戦争の論理や価値観だけで動かしているわけではないといった姿勢を堅持しているのであった。
結局民主主義陣営の側にこそ、平時の感覚、平時の社会的知恵、そして社会のバランスを保っていることがわかるようになっている。だからこそ戦争は平時の社会の基本に反する倫理観について、これは戦争の時代の論理であり、これを人類の普遍の真理などとは思わないでほしいとの教育も行われるわけだ。よくヨーロッパの人々は戦争慣れしているが、日本はそうではないとの論が囁(ささや)かれる。それは戦争の意識を平時と切り離す知恵や能力を指しているというふうに解釈できるのである。
この稿を書き進めているときに、ジャーナリストで評論家の立花隆の死に接した。すでに4月30日に死去していたというのである。昭和15年5月生まれの80歳であった。各紙は「知の巨人」の死ということで大きく取り上げている。確かに立花にはその形容句がふさわしいとも言える。現代日本にこれほどの知識人はいない。私は同年代の一人として、このような知識人が存在したことに誇りを持っている。いわば立花は世界史的なスケールを持ったジャーナリストとしての足跡を残している。その著作は現代史の中の貴重な仕事として、いくつもの時代にわたり継承されていくであろう。それを前提に、しかしここでは立花を追悼する一つの方法として立花を世代論の枠組みの中で、捉え直してみたい。
立花の世代は、前述の世代の分け方では③のグループに入る。戦後民主主義教育を受けた第1期生のようなものである。それは民主主義とは何か、という問いではなく、「民主主義は正しい。軍国主義は間違いである」といった極端なまでの二元論的断定であった。この二元論も前述の戦争時には軍事的価値観で埋まり、平時の思考や哲学を許さないといった単一社会と同義語だったのである。平和は尊い、民主主義万歳、がまさにスローガンであった。立花はそういう社会空間の中に身を置いた。私もそうであった。そして戦後民主主義論の空虚さには目を瞑(つぶ)り、ひたすら私たちの前代の軍事主導教育を呪ったのである。
立花は、これまでに宇宙飛行士の体験、脳死、臨死の細目にわたる調査と取材、さらには生命の仕組み、それこそ私たちが生きている環境、その現在と未来、つまり私たちのこの地球から日常の生活環境まですべてを対象として見てきた。私たちの生きているこの環境そのもののメカニズムを整理しなければ収まりはつかないといった風情でもあった。なぜこれほどまでに彼は知的な関心を高めたのであろうか。
この鍵はやはり世代に関わりがあるのではないかと思う。私は立花よりは6カ月ほど年齢が上になるが、昭和21年4月に国民学校に入学した。この時はまだ国民学校と言い、教科書も十分に揃(そろ)ってなく、教師が謄写版でガリを切って手書きのざら紙の教科書を毎日生徒たちに配布した。そうした日々の中で、民主主義とは何か、を習うのであった。毎日がそういう日々だったのである。
「日本は滅びるのが確実な状況」
しかし翌年、つまり昭和22年4月に小学校に入学した世代は教育内容も、制度も新しい時代に入り、私たちの世代とは大きな違いがあった。立花は講演などでしばしば「私たちの世代は100%戦後民主主義世代である」という言い方をするのだが、それは1年上の私たちの世代は、まだ戦前の価値観が社会の底流にあるのを自覚していたが、立花の世代にはそれさえないとの言を吐いている。私たちはかすかに戦争に関わる息づかいを社会から感じていたが、立花にはそれがないということであった。このことは世代論の論じ方から言えば重大な意味を持つのである。私たちが小学校1年の時に、学生帽などはないから、軍隊の帽子をかぶってくる者もいた。それを教師は見逃すはずもなく、もうそういう時代ではないと伝えて、頭の一つでもコツンと叩(たた)くことがあった。
あるいは、大人が口にしているのだろうが、「今度戦う時はアメリカに復讐(ふくしゅう)するんだ」というようなことを口走る子供もいた。そんな時の教師の激高ぶりは確かに子供たちの目には異様に映った。わずか1年違いだとはいえ、そこには戦後民主主義の受容の仕方が垣間見えるのである。私は立花の、「完全なる民主主義の子供」という言い方に全く納得することができる。立花のこうした理解と発想は極めて重要である。
前述の③の世代である立花は、これまで書いてきたように宇宙、脳死、臨死、さらには生命の源など人間根幹の基本的な学問や知識に触れながら、一方で「歴史」の語り方、継承の仕方、そして重要な歴史の流れについて誠実に語り続けてきた。そこには一見世代の発する言辞はないように思える。だがそうではないと、私は気がついた。
そういう例を挙げておこう。札幌で半藤一利、立花、それに私、メディアを代表する形で中国新聞の編集委員の田城明の4人で、講演とシンポジウムを行った(2009年11月)。その時、立花は「『長い二十世紀』の終わりと日本の運命」というタイトルで講演している。
初めにジョヴァンニ・アリギという社会学者の書いた『長い20世紀』という書を紹介しながら、世界システムの覇権国の推移を説くのである。オランダ、イギリス、アメリカと続いた覇権国の世紀を論じつつ、アメリカの世紀は終わろうとしているという。それでは日本のこれからの状況はどうだろうか、と立花は説いている。そして書くのだ。立花の見方は冷徹であり、そして根拠も明確なのである。
「(日本の運命は)一言で言うと『ほとんど滅びるのが確実な状況』にあります。おそらく日本人の大半の意識は、『かなり状況は悪いけれども破滅までは行かないだろう』というものではないかと思いますが、けっしてそうではありません」
太平洋戦争に例えると、とっくにミッドウェー海戦は終わっていて、ガダルカナルからも撤退している。日本は歴史の流れでは敗北必至のこの時代をいかに損失を最小限にとどめるかという段階だというのである。立花は日本の国力が衰退していくのは、いくつもの条件の重なり合いがあるとも説いている。
日本がこの先力を失っていくのは、いくつかの顕著な理由があるとして、立花は例えば、人口減を挙げている。人口減はそのまま生産世代の減少にとつながっていく。やがて5000万人を割り込むであろうと予測される。もう一つ重要なことは、科学技術者の数が激減するということである。それは人口減がそのまま反映していることでもあるのだが、もう一面で教育水準の低下が拍車をかけている。
かつての日本経済は他の先進国に比べて、極めてストイックに、そして懸命に技術立国を目指したが、その時の余力で持ちこたえてきた。しかし国家財政の長期債務の残高を見てもわかる通り、今は800兆円以上になっている。いわば借金を返すメドは立たない。これは太平洋戦争で敗れるということがわかっているのに始めたのと同じではないかというのであった。
立花のこうした見解の底に重要な指摘が隠されていることが、私にはわかってきた。このことは整理した上で、ある形で書き残すことになっているのだが、立花は私が考えていた以上に二つの危機意識を持っていることを知った。その二つとは次の点である。
1 自らの世代が背負い込んだこの時代の人類史上の問題を抽出し、それを次代の人たちに書籍として残す。
2 人間本来の存在を、歴史上の哲学者や思想家の解明を整理し、新しい視点を浮かび上がらせて、人類史の方向性を正確に示す。
この二つに通じていることは何か。それはまさに「世代の責任」そのものである。誰に頼まれたわけではない。立花の心理の底にそのような生き方をせざるを得なかった内的な衝動を、私は同世代として感服して見つめてきたのである。私は、実は「立花隆」を固有名詞だけで見ているわけではない。普通名詞で見ている、と言いたいのである。普通名詞の立花隆は、近現代の日本史が残した最大の重みを持つ存在である。その著(特に『宇宙からの帰還』)は、時間を超え、国を超え、読まれ続けることになろう。私が立花と同世代であることに、誇りと自負を持つというのは、立花をそのような存在と受け止めるからである。
立花の思考と時代分析は私の財産
さて固有名詞の立花隆である。有り体に言って、私は立花と親しい関係ではない。しかし妙な縁があり、いくつかの点で3、4度、深い会話を交わす機会があった。5分か10分という時間ではなく、3時間とか4時間である。私は、これまで昭和史の探求に延べ4000人ほどの人たちに会ってきたのだが、「ああ、この人物は少し違うな」という印象を感得する人物がほんのわずかだが、存在していた。奇妙な言い方になるのだが、そういう人は本人の意思を超えて、「歴史に呼ばれて、この世に生まれてきたな」との印象を与える。
あえて一人を挙げれば、農本主義者の橘孝三郎がそうであった。大正時代の理想主義者、語学に通じて東西の哲学書を読み抜いた。私は50年近く前に、彼を2年近くにわたって取材をした時に、初めて特別の人がいるのだと実感した。
私は立花と4時間ほど、本郷の猫ビルの3階の彼の書斎で話し合ったことがある。ちょうど7、8年前の初秋であった。その時の彼との対話は、私の財産である。札幌でのシンポジウムでの前述の見解についても、2時間余にわたり対話ができた。立花の思考に触れ、あるいはその時代の分析に触れた私は、その死を誰よりも惜しむ。立花の著作の解説を頼まれ、今書き進めているのだが、固有名詞の立花の気持ちに応えようと思う。立花と私の奇妙な縁を、彼も感じていたことに、私は感謝している。同世代の者が果たすべきことは何か。かつて立花が話した至言を私も次代の人たちに語っていきたい。