このうつくしい音色の楽器製作者は誰か? 探訪の旅で知る欧州文化史=池内了
『あるヴァイオリンの旅路 移民たちのヨーロッパ文化史』 評者・池内了
著者 フィリップ・ブローム(歴史学博士) 訳者 佐藤正樹 法政大学出版局 3740円
無名の楽器製作者を探す旅 近世欧州の歴史の重層楽しむ
歴史家であり作家でありジャーナリストでもある著者が、ふと手に入れたヴァイオリンの出自を巡る物語で、欧州の過去400年の楽器製作を軸にした歴史を巡る教養小説の趣があって実に楽しく読めた。
このヴァイオリンはストラディヴァーリのような名器ではないが、その姿には気品があって誰もが褒めそやし、奏でる音は喜びと苦しみが等しく胸に深く吸い込まれるかのように感じられる。楽器の様式から1700年前後に製作されたと推定されるが、作者が誰であるかわからない。売り主は、熟練した職人の作品で、楽器の音色は「流暢(りゅうちょう)なイタリア語だが、かすかに南ドイツの訛(なま)りがある」と言う。この言葉に後押しされて、著者は無名のヴァイオリン製作者Xの探索の旅に出たのであった。
この旅は、17~18世紀の欧州史、なかんずく同時代の楽器製作者(例えば、後述するマッテーオ・ゴフリラー)やヨハン・セバスチアン・バッハのような音楽家の生き様を史実を交えて語りながら、Xなる人物の出身地と思われる南ドイツのフユッセンや職人修業をしたミラノ、ベネチアなどイタリアの都市の当時の雰囲気をたどっていく。時あたかも三十年戦争が勃発し、太陽活動が弱まって小氷河期が訪れ、ペストの流行という不安な時代である。骸骨姿の死神がヴァイオリンを奏で、もう一人の死神が教皇を墓へ拉致しようとする「死の舞踏」の絵に時代の気分が見事に活写されている。歴史家である著者の、うんちくを傾けた音楽史のエピソードも楽しい。
著者は、このヴァイオリン製作者Xがなぜ無名のままであったかを探るために、仮にハンスと名付けた若者が南ドイツを出て、ベネチアでヴァイオリンを製作するようになった経緯を想像してみる。そこでゴフリラーが思い出される。彼は、ベネチアで工房を持って数多くの著名な楽器製作者を育てたのだが、会費の高い「工芸組合」に加盟せず、高額の税金を納めることを拒否して自らの名を記したラベルを貼らずに製作した楽器を売るようになったらしい。その結果、時とともにゴフリラーの名は忘れ去られ、その楽器はクレモーナの大家たちの作品とされるようになってしまった。ハンスはこの工房で育った職人であったようなのである。それを突き止めたところでX探索の旅は終わる。
製作者Xが優れた腕を持ちながら無名のままに終わった理由が分かる仕掛けだが、重層的な欧州の歴史を楽し気に語る著者をうらやましく思ったことである。
(池内了・総合研究大学院大学名誉教授)
Philipp Blom 1970年、ドイツ・ハンブルク生まれ。歴史学のほか、作家、ジャーナリストでもあり、オペラ台本の翻訳なども手がける。『手に入れることと死蔵すること─蒐集家と蒐集の秘史』など著作多数。