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「責任を取れるリーダー」がなぜ必要なのか 「キリンの天皇」ひっくり返した経営会議の中身

    1994年の一番搾りポスター。緒形拳を1990年の発売当初から使ったのは、「親しみやすさ」を求めたため
    1994年の一番搾りポスター。緒形拳を1990年の発売当初から使ったのは、「親しみやすさ」を求めたため

    あっけないほどの圧勝

    「これでは勝てません。スーパードライを止める大型定番商品をつくるのが、僕たちの目的だったはずです!」

    前田仁(ひとし・1950年~2020年)チームの「一番搾り麦汁ビール」か、企画部とマッキンゼー混成チームの新商品か。

    どちらを商品化するかを決める経営会議から、前田が戻ってきた。

    その前田に、いつになく激しい調子で噛みついたのが、舟渡知彦だった。

    名古屋工場の醸造技術者だった舟渡は当初、一番搾り麦汁だけでつくるビールに反発していた。

    ただ商品開発を進めるうちに、舟渡の考えは変わる。一番搾り麦汁ビールのピュアな味わいに舟渡は可能性を見いだし、積極的に賛成するようになっていた。

    経営会議の結果はどうだったか。

    「ハートランド」開発時に前田の部下だった太田恵理子は、この時リサーチャーとして新商品開発の市場調査を担当していた。

    複数回実施した消費者調査と、社内で行ったテストの結果、前田チーム案の「一番搾り麦汁ビール」のほうが「ぶっちぎりにスコアが高かった」と太田は話す。

    前田チームのライバルとなったのは、企画部・マッキンゼー混成チームの新商品案「キリン・オーガスト」だった。

    なぜ畑違いの企画部が新商品開発に乗り出したかについては、前回詳述した。

    企画部・マッキンゼー混成チームはカタカナのネーミングを採用していた。

    そのことからも若者をターゲットにしているのは明らかだった。

    肝心のビールはドライタイプで、良くいえば「スーパードライ」大ヒットを受けた手堅いもの。悪く言えば独創性に欠ける案だった。

    ただ、日本広告史に残る超大物が手掛けた商品デザインは非常にクオリティが高かった。企画部・マッキンゼー混成チームの「本気度」は半端ではなかった。広告代理店には博報堂がついていた。

    一方の前田チーム案は、「一番搾り麦汁だけを使った贅沢なビール」。

    軽快なドライでも、重厚なドイツタイプでもない、”ピュアな味わい”を追求していた。

    この時点での名称は「キリン・ジャパン」。

    デザイナーは”丸井の赤いカード”で名を馳せていた佐藤昭夫と、キリンデザイン部の望月寿城(現在は漫画家しりあがり寿)。広告代理店は電通だった。

    2つの案が激突する社内コンペが開かれたのは、1989年の年末、キリン本社がある原宿の街に木枯らしが吹いた日だった。

    「大一番」は前田チームの圧勝。僅差を予想した人々があっけなく感じるほどのワンサイドゲームだった。

    当時を知るキリン元幹部は次のように述懐する。

    「『キリン・オーガスト』の『オーガスト』とは英語で8月の意味。これはもともと、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが、誕生月8月に自分の名前をつけたという語源がある。アウグストゥスは養父ジュリアス・シーザーが、誕生月の7月に自分の名前をつけたことにならった。

    企画部・マッキンゼー混成チームの『キリン・オーガスト』というネーミングは、こうした故事をもとに、『皇帝』を想起させる意図があった。ただそれは説明が必要で、一般消費者には分かりにくいと評価された」

    値上げすれば売れない

    社内コンペの結果を受け、すぐに経営会議が開かれた。

    その経営会議の席上で、前田チーム案「キリン・ジャパン」の商品化が正式に決定する。

    ただ、ここで問題が持ち上がった。

    「キリン・ジャパン」は、「エビス」のような価格の高いプレミアムビールにするというのである。

    当時のキリンでは、一番搾り麦汁7、二番搾り麦汁3の割合で仕込みを行っていた。

    一番搾り麦汁だけを使えば、雑味の少ない、純粋な味わいのビールができる。

    ただ、二番搾り麦汁を使わない分、収量は単純計算で3割も減ってしまう。

    収量が減る分、大幅なコストアップとなる。

    このため、前田チーム案には特に生産現場からの反発が強かった。

    そのため、3割減る分、商品価格を上げるという判断を経営会議が下したのだった。

    経営会議に出席していた前田が何も言えないまま、「キリン・ジャパン」は翌1990年3月の発売が決定する。

    経営会議の結果を持ち帰った前田に、舟渡が食ってかかったのだった。

    徐々に「一番搾りビール」に魅せられていった舟渡は、むしろ通常価格での販売を訴えていた。

    売価の高いプレミアムビールは、どうしても販売量が限定される。サントリーの「ザ・プレミアム・モルツ」がプレミアムビール市場を創出するのはまだずっと先のことだった。この時点では、プレミアムビールは一般の消費者に浸透していなかった。

    ラガーやスーパードライと同じ通常価格で発売しなければ、大ヒットはない。

    (前田チームには、「一番搾り麦汁ビール」をプレミアムビールにするプランもあった。ただ、あくまで“プランB”として検討したまでで、メインの案ではなかった)

    1990年3月22日にキリンビールから発売された「一番搾り」は何度もリニューアルされている。87年3月17日発売にアサヒビールが発売した「スーパードライ」は一度もリニューアルされていない。
    1990年3月22日にキリンビールから発売された「一番搾り」は何度もリニューアルされている。87年3月17日発売にアサヒビールが発売した「スーパードライ」は一度もリニューアルされていない。

    「偶然」の直談判

    「前田さん、僕はこれから中茎さん(啓三郎専務=当時のビール事業本部長)のところに行って直談判してきます!」

    そう宣言した舟渡を前田は止めた。

    「やめとけ。とにかく、まず落ち着こう」

    勝手な行動をとろうとした舟渡に、前田は怒らなかった。舟渡の考えをそのまま受け止め、むしろいつになく優しい眼差しで舟渡に接していた。

    前田自身、通常価格で売るべきだと思っていた。そうしなければスーパードライに対抗できないことは分かり切っている。

    だが、このとき前田は39歳。経営会議の決定を覆すパワーはなかった。

    そのとき、前田率いるマーケティング部第6チームが入っている部屋のドアが静かに開き、大男が入ってきた。

    「あっ!」

    その男に気づくと、チームのメンバーが驚きの声を上げた。

    その男は背筋をピンと伸ばし、前田のほうにズンズン迫ってくる。

    やがて前田の前にやってくると、前置きもなく言い放った。

    「前田君、今日の経営会議の決定を、君はどう思う」

    この「大男」こそ、キリン社長の本山英世だった。

    当時”キリンの天皇”と呼ばれていた男である。

    「社長、実は申し上げたいことがあります」

    「そうか。では、二人だけで話そう」

    そう言うと本山は踵を返して出て行き、やはり背が高くスリムな前田がその後に続いた。

    「キリンは会議の多い会社」(89年当時の役員談)だったが、この時の二人はそうした会議が無駄なことを理解していた。

    二人は社長室でなく、空いている部屋で立ち話をしたようだ。

    直前に舟渡の「直談判」を止めた前田だったが、期せずして自分が経営トップに直談判することになった。

    「すべての責任は私が取ります」

    1925年8月生まれの本山はこのとき64歳だった。

    本山は戦争中陸軍士官学校で軍事教育を受けていた。身体は柔道で鍛え上げていて、いつも背筋がピンと伸びていた。

    戦後、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業、キリンに入社したのは50年のことだ。

    本山と前田には以前から個人的な関係があった。

    前田の結婚式で仲人を務めたのは、何を隠そう本山である。

    本山が大阪支店長だった時、総務部に勤めていた前田の妻、泰子が秘書役を担っている。

    しかもその当時、前田自身も大阪支店に在籍していた。

    ただ前田が「一番搾り」開発にあたって、こうした個人的なつながりを利用したわけではなかった。

    この「直談判」の場でも、純粋に商品としてどうすれば売れるか、という話をした。

    前田も、そして本山も、会社の命運を左右する局面に、「私的な事情」を持ち込む性格ではなかった。

    開発責任者として「通常価格でなければ、スーパードライを止められません」と、前田はあくまで冷静に訴えた。

    原価が高い商品を値上げしなければ、損益分岐点が上昇する。その分、大量に販売しなければならない。

    逆に言えば、数を売れば、多少原価が高くても採算はあう。ただ思うように売れず、”空振り”だった場合、ダメージが大きい。

    つまり値上げせず従来価格で売るのは”危険な賭”だった。

    「ハートランド」「一番搾り」など今でも定番のキリン商品を開発した「伝説のマーケター」前田仁(ひとし)
    「ハートランド」「一番搾り」など今でも定番のキリン商品を開発した「伝説のマーケター」前田仁(ひとし)

    「すべての責任は、私が取ります」

    当時39歳の前田に全責任を取れるはずもない。

    ただ、“キリンの天皇”の前で、前田は自分の覚悟のほどを示したのである。

    マーケティング部第6チームのフロアに、じりじりした空気が流れる。

    前田を待つ舟渡たちには、一秒が一時間にも感じられていた。

    ただ実際には10分も経っていなかったようだ。

    やがてドアが開いて、いつもの「ニヤニヤ笑い」を浮かべた前田が入ってくると、いつになく張りのある声で次のように言った。

    「通常価格で行くことになった。プレミアム案は却下だ」

    舟渡は思わず小躍りした。

    数日後、本山は再び経営会議を招集すると、自ら議長役を務めてこう発言した。

    「新商品の目的はスーパードライを止めることだ。だから通常価格で売ろうと思う。君たちはどう思うか」

    どう思うかと聞かれても、”キリンの天皇”に面と向かって反対する者はいなかった。

    この会議には企画畑のドンで、「キリン・オーガスト」開発を画策した”キリンのラスプーチン”も出席していたが、他の役員と同じく沈黙を守った。

    静寂が議場を包み込んだのを確認すると、本山は言った。

    「では、通常価格で決定する」

    経営会議が終わり役員会議室を出ようとする本山に、前田は起立して深々と頭を下げた。

    前田も経営会議に、前回同様末席で出席していたのだった。

    本山はその前田を一顧だにせず、スタスタと通り過ぎていったという。

    永井 隆(ながい・たかし)1958年生まれ。フリージャーナリスト。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動を行う一方、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。 主な著書に『移民解禁』(毎日新聞出版)、『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『EVウォーズ』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)など。

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