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「学歴はいいが実績がない」「手柄を横取りする」「権力者に取り入る」キリンの業績低迷をもたらした「サラリーマン茶坊主社員」の正体

    1990年キリン一番搾り生ビール 新発売時ポスター 、俳優の緒形拳さん(キリンビール提供)
    1990年キリン一番搾り生ビール 新発売時ポスター 、俳優の緒形拳さん(キリンビール提供)

    ”天才マーケター”と呼ばれた前田仁(ひとし・1950~2020年)。

    彼が生んだヒット商品は数多いが、最大のヒット作は「一番搾り」(1990年3月22日発売)だろう。

    時は1989年。日経平均株価が連日上昇を続けていた、バブル末期のことである。

    年明けから、前田のチームは「一番搾り」の開発に着手していた。

    芸術家など社外の人脈を頼りに、新商品のアイディアを探っていた前田の前に、突如、予期せぬ”敵”が現れたのだった。

    「ハートランド」「一番搾り」など今でも定番のキリン商品を開発した「伝説のマーケター」前田仁(ひとし)
    「ハートランド」「一番搾り」など今でも定番のキリン商品を開発した「伝説のマーケター」前田仁(ひとし)

    「身内」から撃たれる

    「スーパードライに対抗する大型定番商品は、いまのキリンにとって必要不可欠である。よって、企画部でもマッキンゼーとともに大型商品を開発する」

    前田が率いるマーケティング部第6チームが、アサヒ「スーパードライ」(87年3月発売)に対抗する大型新商品を開発している最中に、突然、企画部からこのような提案がなされた。

    もちろん新商品開発は本来マーケティング部の仕事である。

    一方、本来の企画部の業務は、組織・業務改革、会社全体の予算管理、そして戦略立案などである。

    その企画部が、本来は黒子のはずの外部コンサル会社マッキンゼーを巻き込み、具体的な商品開発を始めるというので、社内に波紋が広がった。

    「1980年代のキリンは、外部のコンサルが大好きでした。本社のスリム化、販売組織の変更、成果型の人事評価システム導入など、社内改革にコンサル会社を使っていました。中でも特に食い込んでいたのがマッキンゼーでした」

    キリンOBの元幹部はこのように述懐する。

    そうしたキリンの社内事情も影響したのだろうか。企画部の前代未聞の提案は、最終的に通ることになった。

    前田のマーケティング部第6チームと、企画部およびマッキンゼー混成チーム、両者を競争させて、消費者テストの結果などから一方を採用しようということになったのだ。

    ちなみに、企画部とマッキンゼー混成チームの名称は、DBS(デベロップメント・ビア・ストラテジー)。

    ビールの商品戦略の一環として、大型新商品を開発するというつもりだったようだ。

    連載第9回で触れたが、当時キリンの商品開発は迷走が続いていた。

    88年に発売したドライビールは思うように売れなかった。

    89年には2月から4月にかけて4つの新商品を立て続けに発売、これを「フルライン戦略」と銘打って商戦に臨んだものの、いずれも不発に終わった。

    相次ぐ新商品の失敗の結果、この年キリンは23年ぶりに販売シェア50%を割り、48.8%で着地。凋落ぶりを印象づける結果となった。

    当時売上げナンバーワンだった「キリンラガー」は「殿様商売」だった
    当時売上げナンバーワンだった「キリンラガー」は「殿様商売」だった

    「キリンのラスプーチン」

    さて、企画部主導の「DBSチーム」を動かしていたのは、企画部のある最高幹部だった。

    人呼んで、「キリンのラスプーチン」。

    キリン社内では「切れ者」「策士」と評される人物だが、

    「米欧への出張に料金の高いコンコルドを使う」

    「他人の手柄を平気で横取りする」

    「ワンマンぶりで”天皇”と称された本山(英世)社長に取り入って、虎の威を借りている」

    など、悪評も多い人物だった。

    その「キリンのラスプーチン」は、ウイスキー関連の子会社であるキリンシーグラム(現在はキリンディステラリー)への出向から、ちょうど本社に戻ったばかりだった。

    それにしても「ラスプーチン」は相当な言われようだ。キリン社内でよほど反感を買っていたものと思われる。

    ただ、こうした悪評を立てられていた幹部は、この人物以外にもいた。

    そこに当時のキリンが抱えていた「闇」がある。

    魑魅魍魎が巣くうキリン本社

    長年にわたって、ビール業界シェアNO1の地位を維持していたキリン。

    一見華々しい成功を収めたかに見えるが、一方、社内では目に見えない劣化が進んでいた。まるで古い家をシロアリが食い荒らすかのように。

    「当時のキリン本社には、腹黒い幹部がたくさんいた。まさに魑魅魍魎(ちみもうりょう)の巣のようだった。

    キリンの全盛期しか知らない彼らは、業績の下降局面ではまったく役に立たなかった。それどころか保身と権力闘争によって、会社の業績に悪影響を及ぼしていた」

    「まるで、資産家の家に生まれたドラ息子が、財産を食いつぶすのを見ているようだった。不思議なことに、そういうドラ息子のほうが当時のキリンでは出世していた。貧乏人の家に生まれた孝行息子タイプのほうが、会社のために一生懸命に働くのに、そういう人材ほど遠ざけられていた」

    長きにわたるキリンの天下が必然的にもたらした社内の腐敗。

    ただ、その状況を決定的に変えてしまったのが「スーパードライ」の登場だった。

    アサヒの猛追を受け、キリンの屋台骨が揺らぎ始める。

    こうなると、魑魅魍魎たちも黙ってはいられなくなった。

    ただ、彼らにとって会社の利益は常に二の次。自分の出世と利益確保こそ、彼ら魑魅魍魎たちの興味の全てだった。

    キリンの業績にとって、スーパードライのヒットは脅威のはずだった。だが、社内に巣くう彼ら魑魅魍魎たちにとっては、むしろ好機とうつった。社内における自分たちのプレゼンスを上げるチャンスだと考えたのだ。

    企画部とマッキンゼーによるDSBチームは、そうした魑魅魍魎たちの動きの一例だった。キリンのピンチを利用すれば、こうした前例のない取り組みも容易に実行できたのである。

    彼らはキリンの危機に鈍感だった。

    「アサヒは、そのうち止まる。そうすれば、いずれキリンのシェアも元に戻るだろう。それまでの間に、いかに自分の立場を築くことができるかが勝負だ」

    彼ら魑魅魍魎たちはそう考え、醜い社内政治へと向かっていったのだろう。

    しかし、キリンのシェアが50%を超えて元に戻ることはなかった。

    当時のキリンはワンマンタイプの本山社長が率いていた。

    よって、キリンのピンチに際して、社長は社内を一新することもできたはずだった。

    型破りだが実力のあるタイプ、人柄が清廉なタイプ、一言居士といった社内の人材を、もっと登用すべき局面のはずだった。

    だが、会社の業績が下降する局面には、ワンマン経営者ほど、周りに”茶坊主”を置きたがるものだ。

    ワンマン経営者とはいえ、所詮はサラリーマン社長である。ブルドーザーのような迫力で事業を推し進める創業者タイプではない。

    実力はあるが扱いづらい社員よりも、学歴だけ超一流だが実績はない、悪知恵ばかりのサラリーマン茶坊主のほうを、身辺に置きたがるのである。

    その結果、キリンは業績が低迷すればするほど、実力主義から遠ざかり、「君側の奸」ばかりがはびこる組織となっていったのである。

    ロングセラー商品の5箇条

    前田仁は、こうしたキリンの現状を深く憂いていた。

    企画部が独自に商品開発を行うと提案し、その背後に「キリンのラスプーチン」がいることを知った前田は、当然面白くなかった。

    ただ、周囲の前ではそうした動きを意識する様子を見せなかった。

    もともと前田は感情を表に出さない男だった。決して無愛想なわけではない。淡々としてはいるが、むしろいつもニヤニヤしながらメンバーに話しかけるような気さくなタイプだ。

    京大農学部を卒業して84年にキリンに入社、直近の88年末まで名古屋工場醸造課に在籍していたマーケ部第6チームの舟渡知彦は、当時の前田についてこう証言する。

    「当時、『ロングセラーに帰る消費者たち』(ダイヤモンド社)という本が前田さんあてに送られてきました。千葉商科大学の教授をしていた熊沢孝さんが著した本でした。前田さんは忙しかったので、代わりに私が読んで、内容を前田さんに教えるよう指示されました」

    『ロングセラーに帰る消費者たち』は、ハウス・バーモントカレーや、グリコ・ポッキーなど、様々なロングセラー商品について分析していた。

    名古屋工場時代、発酵学や生産管理の専門書を数多く読んでいた舟渡は、マーケティングの本を初めて読む。新しい世界に触れた興奮を覚え、その要点を自分なりに5つに整理して前田に提出した。

    「1つ、企業の思い入れが感じられること。

    2つ、オリジナリティーがあること。二番煎じではダメ。

    3つ、本物感があること。

    4つ、お客様が得した感じを抱けること。要するに経済性です。日本の消費者は経済性が好きで、メーカーはその分損をしがちです。

    5つ、親しみやすさがあること。個性が強すぎるものは嫌われます」

    舟渡の話を聞いていた前田はこう言ったという。

    「ええやないか。これで行こう」

    こうして、「一番搾り」の方針がまとまっていった。

    一番搾り発売当時の新発売用お得意先向けリーフレット(キリンビール提供)
    一番搾り発売当時の新発売用お得意先向けリーフレット(キリンビール提供)

    「帝国ホテル」スイートのミーティング

    キリンは戦後長らくビールのトップメーカーの座を維持していたが、市場をリードするヒット商品はなかった。業界トップブランドの「ラガー」ができたのは戦前の話だった。

    キリンのシェアは、業界の構造によって守られていた。酒販免許に守られた酒屋が各家庭に宅配するという仕組みが、キリンのシェアを支えていたのである。

    一方、サントリーは最後発ながら、日本で最初に生ビールを開発した。この頃、ビール事業は赤字だったが、熱処理ビールから生ビールへ、という市場の流れをつくった。

    アサヒには言わずと知れたドライビールがある。

    それだけに、ライバルとの熾(し)烈な競争にキリンが勝つためには、オリジナルのヒット商品がどうしても必要だった。

    前田が率いるマーケティング部第6チームには、大きな期待がかかっていた。

    その分、予算も潤沢に使えたようだ。

    「前田さんは帝国ホテルが好きだったので、ミーティングには帝国ホテルのスイートルームを頻繁に使っていました」

    当時を知る関係者はそう証言する。

    前田チームのミーティングに集まったのは、何もキリン社員ばかりではなかった。

    電通のクリエーターやCMプランナー、フリーのアートディレクターなども顔をみせていた。10人以上参加していたという。

    舟渡は言う。

    「外部の広告のプロが会議に参加してくれるのは、いい影響がありました。キリンの人間だけで考えていると、どうしても『キリンの常識』に囚われてしまいますから。

    一番麦汁だけを使うビールなんて、『キリンの常識』では考えられなかった。そんなことをすればコストアップにつながるからです。

    ただ、ビール作りを知らない人には、むしろ”面白いアイディア”と受け止められたのです」

    ミーティングでなにか面白い発言があるたび、前田は大きめのポストイットにメモして、帝国ホテルのスイートルームの壁に無造作に貼っていった。

    「ミーティングではかなり広範なジャンルにわたって、様々なアイディアが出てきます。それを整理して方向性を絞り込んでいくのですが、前田さんはこの作業が上手でした」

    と、舟渡はしみじみと語る。

    「大型定番商品の開発テーマは、”生ビールの純度”でいきます。つまり、ピュアな美味しさに、徹底してこだわるということです」

    壁一面に張られたポストイットを見渡した前田は、参加メンバーにそう宣言した。

    永井 隆(ながい・たかし)1958年生まれ。フリージャーナリスト。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動を行う一方、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。 主な著書に『移民解禁』(毎日新聞出版)、『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『EVウォーズ』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)など。

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