自由、真理、民主主義はいまだ遠く。「未完の旅」を続けるアメリカ=上川孝夫
『アメリカを作った思想 五〇〇年の歴史』 評者・上川孝夫
著者 ジェニファー・ラトナー=ローゼンハーゲン(ウィスコンシン大学教授) 訳者 入江哲朗 ちくま学芸文庫 1430円
悩める大国に見る 不完全な実験としての歴史
最近アメリカでは、黒人暴行死事件やアジア系への人種差別、巨大IT企業の市場支配、所得格差の拡大や社会の分断など、問題が噴出している。いったいアメリカの歴史を作ってきた思想はどのようなものだったのだろうか。本書は15世紀末にヨーロッパの探検家がアメリカ先住民に接触してから21世紀初頭に至るまでのアメリカ思想の歴史を、政治、経済、哲学、宗教、文化といった多様な視点から論じたものである。
黒人暴行死事件で再燃した奴隷制の問題は、本書の大きなテーマの一つだ。奴隷制は植民地時代のアメリカ南部のプランテーションに典型的にみられたが、この奴隷制の是非をめぐる当時の議論を紹介している。アメリカ「建国の父」といわれたベンジャミン・フランクリンは奴隷所有者であり、ハーバード大学の学長のなかには私設奴隷を持ち込む者さえいた。自由、共和主義などを理念にかかげ、アメリカ独立宣言(1776年)に貢献した「啓蒙(けいもう)思想」も、奴隷制や女性差別の問題では見かけ倒しだったと指摘する。
アメリカが経済大国として台頭する19世紀後半の議論も興味深い。ダーウィンの『種の起源』(1859年出版)に触発されて、その考え方を人間社会に適用する「社会ダーウィニズム」が登場し、「最適者生存」や自由放任主義が叫ばれる。これにはダーウィンもいまいましく思ったという。大企業が出現し、貧富の格差が広がると、これに抗して「革新主義」運動が活発化する。1890年には独占禁止法が制定されるが、この法律は現在、巨大IT企業を規制する根拠法の一つとして利用されている。
第二次大戦後も黒人の公民権獲得運動や女性解放運動などが活発になるが、偉大なアメリカ社会を建設するという夢を打ち砕いたのがベトナム戦争だ。真理や科学、社会進歩などに懐疑的な思想(ポストモダニズム)が流行し、論争が巻き起こる。その後グローバリゼーションの時代に入り、9・11(同時多発テロ)が起きる。アメリカ人は自らの生活がいかに地政学的な出来事に左右されているかを思い知り、アメリカ人であるとともに世界市民でもあることの意味が改めて問われる状況になった。
著者によれば、アメリカの歴史を動かしてきた自由、真理、民主主義などの理念は、とても完璧なものとはいえず、アメリカという国も不完全な実験でしかなかったという。アメリカは今なお「未完の旅」を続けているのである。悩める大国アメリカの深層に迫る労作である。
(上川孝夫・横浜国立大学名誉教授)
Jennifer Ratner-Rosenhagen 2003年にブランダイス大学よりPh.Dを取得。現在、ウィスコンシン大学マディソン校歴史学教授。専門はアメリカ思想史、アメリカ文化史。著書に『アメリカのニーチェ』など。