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「パンツの中に大麻とコカイン」勝新太郎の逮捕が、あのビールの大ヒットをもたらした驚きの事情

    どうやったら知らないうちにパンツの中に入るのか?
    どうやったら知らないうちにパンツの中に入るのか?

    CM「ラ党の人々」お蔵入りの背景

    キリン「ラガー」の販売強化策の一環として企画されたテレビCM「ラ党の人々」は、1990年1月16日に放映が始まった。

    「ラ党の人々」は、まるで連続ドラマのように、CMの中身が毎月変わる。

    中身は現実の季節と対応しており、季節に応じて「ラガー」の訴求を狙うという企画だった。

    今では一般的な手法だが、当時はドラマ仕立てのCM自体がテレビ界としても初めての試みだった。

    ところが、このCMの放映開始直後に、とんでもない事件が発生する。

    「ラ党の人々」に出演していた俳優の勝新太郎が、コカインと乾燥大麻を隠し持っていた容疑で、ハワイの空港でホノルル税関当局に逮捕されてしまう。

    奇しくも「ラ党の人々」放送開始直後の、17日未明(日本時間)の出来事だった。

    勝新太郎は『座頭市』シリーズで知られる、超大物俳優だ。

    その勝の逮捕は、当然ながら日本で大騒動を巻き起こした。

    17日付の毎日新聞夕刊が『勝新太郎容疑者麻薬で逮捕』と社会面トップで報じ、同日の朝日新聞夕刊も同様に『「座頭市」麻薬で逮捕』と報じるなど、新聞各紙は一斉に反応した。

    勝は麻薬を下着に隠していたため、夕刊紙やスポーツ紙、週刊誌は「パンツ事件」と面白おかしく書き立てた。

    CM放映が始まった翌日にこんな不祥事が起きることはまったくの予想外だった。

    だが、このときのキリンの対応は素早く、17日には早々とCMの放送自粛が決まる。

    テレビ界初となる「ドラマ仕立てCM」は、わずか1日でお蔵入りとなった。

    キリンは、17日付の毎日新聞夕刊によれば、「このCM制作で既に数億円を投入」していたという。

    金銭的な損失もさることながら、不祥事によって当初計画していた商品PR計画に狂いが生じたことも、キリンにとって痛手だった。

    同毎日夕刊には、「勝新太郎を信頼してコマーシャルに起用しただけに残念だ。裏切られた気持ちだ」というキリンのコメントが紹介されている。

    誰もが予想だにしなかった、勝新太郎の「パンツ事件」。

    その結果キリンは、ラガーの販売強化策を中心に据えた1990年の商品戦略を、根本的に変更する必要に迫られる。

    「パンツ事件」で辞表を提出した役員

    商品戦略に影響を及ぼすだけでなく、「パンツ事件」は、キリンの役員人事にも影響を与えた。

    前回書いたが、キリン社内で圧倒的な権力を有していた「天皇」本山英世社長は、90年に1期2年の社長続投を決めている。

    本来、本山は3期6年の任期を終え、90年3月に退任するはずだった。

    桑原通徳常務という、営業出身で多くの人材を育成した、有力な後継者がいたにもかかわらず、本山の続投が決まった背景には、前年度にシェア50%を22年ぶりに割るなど、キリンの業績が低迷したことが影響している。

    「パンツ事件」が発生したのは、その本山が続投を表明した直後だった。

    そのため、事件は本山の続投には直接影響しなかったが、もちろんキリン社内では事件の責任問題が持ち上がった。

    当時、「ポスト本山」の有力候補と目されていたキリンの宣伝担当役員が、事件の責任を取り、本山に辞表を提出したという。

    ただ、この宣伝担当役員には、辞職するつもりなどなかった。

    自分から責任を取ると言えば、本山の性格上、無下には扱わないだろうという「作戦」だったようだ。そもそも悪いのは勝であり、キリンは被害者という構図だった。

    この役員の思惑通りに行けば、辞表は受理されず、役員の責任はうやむやになるはずだった。

    だが、「パンツ事件」の責任を取って、この役員が提出した辞表を、本山はなんと受理してしまう。

    役員の思惑は外れ、社長になるどころか、あえなくキリンを退職する羽目になったという。

    当時のキリン幹部が事情を説明する。

    「この宣伝担当役員は、本山さんの側近だった。だから自分は本山さんから信頼されていると思っていた。それに本山さんの性格や振る舞いを熟知していた。

    役員は、『パンツ事件』の責任を感じていると、自分からアピールするほうが、自分にとって得だと考えたわけです」

    「つまり、役員が辞表を提出したのは、単なるポーズで、本当は辞めるつもりはなかった。

    本山さんは自分を信頼しているので、必ず慰留してくれると信じていた。その慰留を受けて、役員は辞意を撤回する算段だった」

    「ところが、役員の思惑は外れました。本山さんは意外にも、あっさり辞表を受領してしまったのです。

    当時のキリンに、自分から責任をとって辞める役員などいなかった。社内に衝撃が走りました。この役員は本山さんの後継者に名前があがる人物。『ポスト本山』レースにもこの事件は影を落としました」

    港区六本木にオープンしたキリン直営のビアホール「シラノ」では、この店限定の瓶入りハウスビール「シラノ」が供された
    港区六本木にオープンしたキリン直営のビアホール「シラノ」では、この店限定の瓶入りハウスビール「シラノ」が供された

    「ラガー」の予算が「一番搾り」に

    経営トップ人事の混乱に「パンツ事件」と、キリンの1990年は年明けから波乱含み。

    その一方、前田仁の「一番搾り」プロジェクトは順調だった。

    前田チームの最年少メンバー、入社3年目の島田新一が手掛ける、六本木のビアブラッセリー「シラノ」は、予定通り90年3月3日にオープンした。

    その後3月12日には、「一番搾り」の発売日が3月22日と公式発表される。オープンしたばかりの「シラノ」では、「一番搾り」の樽生ビールが提供される。

    発売を前に消費者調査が実施され、「一番搾り」は軒並み高得点を獲得する。

    「『一番搾り』のヒットは間違いない」

    前田をはじめ、チームメンバーたちの期待は否が応にも高まる。

    何もかもが順風満帆。全員がそう思っていた。

    「パンツ事件」も、「一番搾り」を後押しする。

    CM「ラ党の人々」の放映中止によって、「ラガー」に投入されるはずだった販促費が、「一番搾り」に回されることになった。

    この事情について、島田はこう話す。

    「『一番搾り』の販促費は当初、地域限定発売の『マイルドラガー』と同じくらいでした。

    しかし勝新太郎の逮捕によって、大きな予算が転がり込んできました。おかげで『一番搾り』の広告を増やすことができた。我々としてはラッキーでした」

    「一番搾り」の大ヒットは、幸運も味方した、と島田は言う。

    当時、筆者もそのような見方を持っていた。

    「パンツ事件」により、「ラガー中心」のキリンは、経営資源を「一番搾り」に集中せざるを得なくなったと、90年当時には見えた。

    伝説のリーダー前田仁氏。撮影は2012年
    伝説のリーダー前田仁氏。撮影は2012年

    前田仁が怒った理由

    かつて、そうした見方を、前田仁本人にぶつけたことがある。

    「一番搾り」発売から12年ほど経過した頃、2002年4月18日のことだった。

    当時中央区新川にあったキリン本社で、この日、16時から17時半までの間、前田仁に個別取材を行った。この時、前田はもう相当の地位に就いていた。

    筆者は単刀直入に質問した。

    「『一番搾り』ヒットの背景には、ラッキーな面、偶発的な要素が働いたのではないでしょうか。勝新太郎がハワイで逮捕され……」

    筆者がそう話し出した瞬間、それまでニヤニヤしていた前田が、みるみる表情を強ばらせていくのが分かった。

    表情を変えただけではなかった。前田は急に筆者の質問を遮り、怒りだしたのである。

    「何を言っているんだ。それは違う! 『一番搾り』は『スーパードライ』に対抗するための大型商品として、1年間かけて開発したビールなんだ。マーケティング部のほか、技術者や営業からも人を集めてつくった、プロジェクトチームの努力の結晶だ。消費者調査や試醸だって、何度も行っている。

    1994年の一番搾りポスター。緒形拳を1990年の発売当初から使ったのは、「親しみやすさ」を求めたため
    1994年の一番搾りポスター。緒形拳を1990年の発売当初から使ったのは、「親しみやすさ」を求めたため

    『一番搾り』は、偶然売れたわけでは決してない。我々は徹底してつくり込んでいる。君は一体何を聞きたいんだ?」

    その時の前田の鋭い眼光と、ひときわ高くなった声のトーンを、いまでも鮮明に覚えている。前田が筆者に対して怒ってみせたのは、後にも先にもこの1回だけだ。

    取材相手と人間関係を築いているほうが、情報を取りやすいのは間違いない。ただそれはあくまで手段であって、目的ではない。取材相手とあまり仲良くしすぎるのも問題ではある。

    取材相手が怒りだすことくらいは何度も経験している。筆者は現在フリーランスの経済ジャーナリストだが、もともとは新聞社にいた。某県の知事選を取材し、大臣経験者の自民党大物議員に厳しい質問をして、「貴様はどこの社だ!」と恫喝されたこともある。

    ただこのとき前田が筆者に見せた怒りは、そうした政治的な思惑が絡む恫喝などとは、一線を画すものだった。

    むしろ前田の怒りには、ものをつくる人の純粋さがあり、またある種の「重さ」を伴っていた。

    前田に取材した02年当時、怒りの原因は、「『一番搾り』のヒットは偶然の産物だった」という筆者の発言が、前田のマーケターとしての矜持を傷つけてしまったからだ、と思っていた。

    だが、いま改めて当時のことを考えてみると、前田が腹を立てた原因は他にもあるような気がする。

    「一番搾り」は発売するやいなや、瞬く間に大ヒット。戦後のキリン初となる、ビールの大ヒット商品となった(発泡酒と第3のビールを除くビールでは、「一番搾り」はキリンにとっていまのところ最後のヒット作でもある)。

    その快進撃とは裏腹に、キリンの商品戦略は迷走を始める。ビールの主力製品を、これまで通り「ラガー」にするか、「一番搾り」にするか、会社として決断できない時期がずっと続く。

    筆者が前田に取材した02年頃は、ビール業界の競争が熾烈を極めていた。

    それを背景に、キリンの営業戦略は「ラガー」を主力にするか、それとも「一番搾り」を主力にするかで揺れていた。

    そんな中、前田としては、「『一番搾り』のヒットはまぐれだった」という話を、真っ向から否定するしかなかったのだろう。

    「『パンツ事件』によって宣伝予算が回ってきた」がたとえ事実であっても、前田としては「一番搾り」開発の美しいストーリーを、なんとしても守る必要があったのだ。

    思えば前田はいつも「ラガー」と戦っていた。「ハートランド」も、もとは「ラガー」に対抗するためのビール。「一番搾り」は「ラガー」に代わってキリンの主力商品となることを狙った商品だった。

    「一番搾り」にとって「ラガー」は、同じ会社の商品でありながら、ある意味では「スーパードライ」以上の敵だった。

    「一番搾り」VS「スーパードライ」、そして「一番搾り」VS「ラガー」の戦いに、前田自身も翻弄されることになる。

    企業というものは、前田がつくった「一番搾り」開発ストーリーのように、綺麗ごとだけで成り立つわけではない。

    出世や保身を企む、人間の欲もまた、企業と切っては切れない関係にある。

    トップ人事が混乱するキリンにおいて、権謀術数を弄する魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちも跋扈(ぼっこ)していた。野望ばかりか、嫉妬(しっと)も渦巻いていた。

    そんなキリンにおいて、前田のつくった美しいストーリーが、そうそう歓迎されるはずもなかったのである。

    永井 隆(ながい・たかし)1958年生まれ。フリージャーナリスト。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動を行う一方、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。 主な著書に『移民解禁』(毎日新聞出版)、『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『EVウォーズ』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)など。

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