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日本企業の闇が深すぎる……「活躍すればするほど、嫉妬されて出世から遠ざかる」ヤバすぎる人事の裏側

    1995年の一番搾りポスター。この年の6月、キリンは「キリンビアーズカップ‘95」というキャンペーンを展開
    1995年の一番搾りポスター。この年の6月、キリンは「キリンビアーズカップ‘95」というキャンペーンを展開

    樋口廣太郎の「怒り」

    「お前のせいだ!」

    「一番搾り」発売直後の1990年。当時、筆者は東京タイムズ社という弱小新聞社の記者だった。

    4月のある週末の紙面に「一番搾り好調でビール商戦に異変」というまとめ記事を書いていた。たしか、デスクから要請(という名の強要)されて書いた“読み物”の記事だったと記憶している。

    その後しばらくの間は何もなかった。しかし、5月の連休が明けて少し経ったある日の夜、思わぬ形の「反応」があった。

    明治学院大学に近い港区白金台にある、アサヒビール社長(当時)樋口廣太郎の自宅マンションに夜回りすると、ステテコ姿で出てきた樋口が、開口一番、筆者を怒鳴りつけたのである。

    「『売れている』とお前が書いたから、勢いが衰えかけていた『一番搾り』が息を吹き返してしまったじゃないか!」

    「はぁ…、そうでしょうか…」

    筆者はそう曖昧に反応したが、

    樋口の怒りは凄まじかった。体格は小柄だったが、その身体を震わせ、だみ声で筆者を怒鳴りつける。頭から湯気が出ているのではないかと思った。

    だが、眼鏡の奥の眼差しはどこか和やかで、こちらを冷静に観察している風でもあった。

    樋口は夜回りに訪れた筆者をわざわざ広いリビングに通し、冷蔵庫から出した「スーパードライ」を振る舞ってくれていた。その時点で、「機嫌は良い」と判断していた。ただし、口調は相変わらずで筆者に向かって速射砲のように不満をまくしたてる。

    「お前の新聞(東京タイムズ)の発行部数が少ないことくらい知っている。だが、お前の書いた記事を鵜吞みにして、別のスポーツ新聞が同じ内容をでかでかと書いた。そのせいで、影響が大きくなってしまったんだ」

    樋口廣太郎は、言いたいことは何でもズバッと言うタイプの経営者だった。

    「直感」に基づく発言も多く、いつも自分の言葉で話す男だった。

    旧住友銀行からアサヒビール社長に転じた「サラリーマン社長」だが、オーナー社長であるかのような言動だった。「破たん寸前だったアサヒを建て直した」という自負が、樋口の言動を自ずと自信満々なものにしていたのかもしれない。

    「新商品はゴールデンウイークまでに勝負が決まる。連休までに思うように売れなければ、仕込み量を減らす。だから『一番搾り』も、量を減らされるはずだったんだ。お前が余計なことを書かなければそうなっていた」

    樋口は言いたいことをすべて吐き出してしまうと、ニコッと笑った。

    「まあ、いい。飲め。もう一本持ってきてやる。俺はウーロン茶で失礼するが」

    そう言って、樋口は2本目の「スーパードライ」350ミリリットル缶を、キッチンの冷蔵庫から出して持って来てくれた。瞬間湯沸かし器のように、一瞬で人柄が変わるのが、樋口の特徴だった。

    「しかし、『一番搾り』を出してきたところを見ると、キリンもようやく消費者の好みの変化に気がついたんだろう。最近『ラガー』も『スーパードライ』みたいな味になってきた。そう思わないか? 一つ、教えておく。ビールの味わいは醸造の工夫により、ある程度ハンドリングできるんだ」

    樋口は仕事以外ではビールどころか酒類全般を口にしない人間だった。激務が続き、医者から酒を制限されているようだった。

    「ところで、君のところの社長(徳間康快、当時、東京タイムズや徳間書店などの社長だった)を見かけたぞ。ある人物と一緒だったな……」

    徳間康快は平和相互銀行事件、リクルート事件などで名を馳せた怪人物。個人的には92年8月、徳間康快が販売不振を理由に東京タイムズを休刊したことは痛かった。お陰で、筆者は職を失い、以来フリーランスとして活動することになった。

    ちなみに、東京タイムズのメインバンクは旧住友銀行で、東京タイムズの経営状況を樋口はある程度知っていたようにも思える

    それはともかく、樋口は記者に向かってサービス精神を発揮するタイプだった。自宅に夜討ち朝駆けを仕掛けても、大抵は会ってくれ、それなりに話してくれた。

    「一番搾り」は1990年3月22日に発売された。写真は現在の「一番搾り」。
    「一番搾り」は1990年3月22日に発売された。写真は現在の「一番搾り」。

    「マスコミ嫌い」の本山

    一方、当時キリンの社長だった本山英世は、記者の夜回りを一切受け付けなかった。

    白金台に住む樋口と違って、本山の自宅は横浜市の東戸塚にあった。

    小高い丘を切り開いた住宅街の大きな一軒家で、「麒麟丸」という猛犬(柴犬)がいた。

    こっそり張り込んでも、「麒麟丸」に見つかって散々吠えられ、追い返されることになる。

    大手紙の記者は黒塗りの社用車を使えるが、筆者のような弱小新聞社の記者は、移動手段といえば電車と徒歩、たまにタクシーがせいぜい。しかも当時、筆者は埼玉の真ん中辺に住んでおり、本山の自宅はなかなか足が向かなかった。

    それでも、仲の良い全国紙の記者に頼み、恥を承知で黒塗りに便乗させてもらって、本山の自宅に押しかけたこともあった。それでも本山は会ってはくれなかった。

    そもそも本山はマスコミ嫌いで、記者会見すらあまり出たがらなかった。

    その本山への個別取材はなおさら難しかった。

    記者も人間である。温かく迎え入れてくれる相手と、そうでない相手であれば、どうしても前者のほうに肩入れしたくなる。

    実際、樋口のファンになる記者は多く、アサヒに好意的な記事が増えていた。

    前田仁氏(1998年撮影)
    前田仁氏(1998年撮影)

    「スーパードライ」をついに止めた

    マスコミでの評価はさておき、「一番搾り」は「スーパードライ」を止める。

    前田仁が開発リーダーとして作った「一番搾り」は、90年3月22日に発売されると、瞬く間に大ヒット商品となった。

    「一番搾り」はこの年の年末までに3562万箱(1箱は大瓶20本=12・66リットル)ものセールスを記録する。

    一方、「スーパードライ」の発売は87年3月17日。その87年の年末までに1350万箱売れている。

    初年度の販売数量を比べると、「一番搾り」は「スーパードライ」の約2.6倍も売れたのである。

    ちなみに「スーパードライ」は発売2年目の88年には、前年の5・5倍に当たる7500万箱も売れている。

    アサヒのライバル3社が「スーパードライ」を止めようと、後追いで「ドライビール」を発売したことによって、「ドライビール」という新ジャンルが生まれ、逆に先発の「スーパードライ」を盛り上げる結果になった。

    発売直後からヒットを記録した「一番搾り」だったが、真価を問われるのは2年目以降の数字だ。

    それゆえ「一番搾り」というブランドを市場に定着させるためのマーケティング活動が重要になるはずだった。

    ある意味、マーケティング部門の力量は、初年度の売り上げよりも、2年目以降の売り上げにこそあらわれると言えるかもしれない。

    そのためには前田仁の力が、必要なはずだった。

    「一番搾り」は1990年3月22日に発売。開発ストーリーの“語り部”になったのは、発売時点で28歳になったばかりの舟渡知彦。少なくとも300回以上、講演やセミナーなどで話をしたという。写真は91年、舟渡が29歳の時。
    「一番搾り」は1990年3月22日に発売。開発ストーリーの“語り部”になったのは、発売時点で28歳になったばかりの舟渡知彦。少なくとも300回以上、講演やセミナーなどで話をしたという。写真は91年、舟渡が29歳の時。

    閑職「ワイン部門」への異動

    「『一番搾り』の伝道師役は君がやりなさい」

    発売後のマーケティング活動の一環として、日本全国から開発の裏話などを語ってほしいというオファーが相次いでいた。

    その他、マスコミからの取材依頼もあった。

    そうした案件をさばく「スポークスマン」の役割を、前田は自分より12歳年下の舟渡知彦にゆだねた。

    「『一番搾り』の開発にすべてを捧げた1989年は、私の人生の中でももっとも熱い1年間でした。その話を、少なくとも300回以上、講演やセミナーでお話しました。本来、ジンさん(前田仁)がやるべき役割なんですが……」

    ただ舟渡がスポークスマンを務めているうちに、キリン社内でも、「一番搾りを開発したのは舟渡」というイメージが出来上がっていったのだという。

    前田チームの最年少メンバーの島田新一と、87年の同期入社だった上野哲生は次のように話す。

    「『一番搾り』発売と同じ頃、私は岡山工場労務課から、北陸支社に異動し富山県で営業していました。新聞や雑誌には舟渡さんがよく登場していて、『一番搾り』は舟渡さんと島田が中心になってつくったと勝手に思っていた。前田さんは本社では有名人だったのでしょうが、末端にいた私たちは、その存在さえ知らなかった」

    ちなみにこの7年後、上野も前田の部下となって、ある特別な商品の開発に携わることになる。

    舟渡はもともと名古屋工場の醸造技術者で、特に広報や取材対応の専門家というわけではなかった。

    前田に代わって舟渡が「スポークスマン」を務めた裏側には、やむを得ない事情があったのである。

    「一番搾り」を発売と前後した1990年3月。

    前田は人事異動の対象になり、ビール事業本部マーケティング部第6チームのリーダーから外されてしまったのである。

    しかも、異動先はこれまで経験のないワイン部門だった。

    2006年末にキリンはメルシャンを傘下に収め、ワイン事業も本格化させることになるのだが、90年の時点で、キリンのワイン事業はまだまだ規模が小さかった。

    キリン社内でも存在感の薄いワイン部門に、花形であるビール新商品開発リーダーの前田を異動させるという人事は、「左遷」に他ならなかった。

    前田に何か落ち度があったわけではない。「一番搾り」はまだ発売直後だったが、事前の消費者調査や、仮受注の数字から考えて、大ヒットは間違いなかった。

    なのに前田は左遷されてしまったのである。

    社内人事をめぐる「暗闘」

    本来、前田は「一番搾り」大ヒットの功績で賞賛され、次の新商品をはじめ、手腕に期待されてしかるべきだった。なのになぜ、前田は更迭されてしまったのだろうか。

    当時の事情を知るキリン関係者は、次のように語る。

    「(社内コンペで前田に敗れた)『キリンのラスプーチン』が、前田さんへの嫉妬から人事部を動かし、左遷させた」

    また別の関係者は、次のように証言する。

    「当時、営業部とマーケティング部は険悪な関係だった。そのマーケティング部で頭角を現していた前田さんを、営業部が切ったらしい」

    どちらも裏事情に通じたキリン関係者の証言ではあるが、はっきりした証拠はない。”龍馬暗殺“の犯人が未だにはっきりしないのと同様、前田を更迭した「犯人」の特定は難しい。

    ただ、これらの証言には、権力闘争に邁進する魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちの姿が見え隠れしている。

    社内人事がゆがめられる一方、前田をかばう動きもあったようだ。

    後にキリンの役員を務めた別の関係者は、次の事実を証言する。

    「前田さんは当初、ビール事業本部の外部組織である外食事業開発部に異動するはずでした。

    『ビアホール・ハートランド』や『DOMA』、『シラノ』など、飲食店舗の開設において前田さんは手腕を発揮してはいた。

    ただ、前田さんの才能がもっとも活きるのはマーケティング、それも新商品の開発でした。

    しかし、外食事業開発部に異動するということは、マーケティング部のあるビール事業本部から外に出るということ。再びマーケティング部に戻ることは難しくなってしまう。キリンの人事において前例がないからです。

    そうなったら、不世出のマーケター前田仁も、一巻の終わりです。

    それに危機感を覚える役員もいました。ビール事業本部の重鎮であるその役員が、前田さんの外食事業開発部への転出を阻止しようとした結果、前田さんはビール事業本部内のワイン部門に何とか留まることができた。

    こうした前田さんの人事をめぐる攻防が、おそらくは本人も知らないところで繰り広げられていたのです」

    前田にとって痛かったのは、後ろ盾だった桑原通徳が「ポスト本山」レースから実質的に外れ、力を失っていたことだった。

    90年3月、桑原は大阪支社長のまま常務から専務へ上がる。

    しかし、89年のキリンのシェアが50%を割り、それを憂いた本山が、90年年初に社長続投を決めてしまった。

    結果、桑原が社長になる芽がほとんどなくなっていた。

    桑原は翌91年3月、当時はキリングループとして上場していた近畿コカ・コーラボトリング(当時。現在はコカ・コーラボトラーズジャパン)の社長に転出することになる。

    桑原の一番弟子だった前田は、まるで桑原転出の外堀を埋めるかのように、閑職へ追いやられてしまった。

    「人には旬がある」と言われる。ならば、組織の力を最大限に発揮するためには、上に立つ人間が、いま誰が旬なのかを見極め、旬の人を要職に起用することが求められる。

    当時の前田はまさに「旬の人」だったが、キリンの人事はその前田を外してしまったのである。

    なぜ、こうした人事が発生するのか。一つには、その会社が直面している外部環境の変化に対する認識が甘く、危機意識が欠如していることがあげられるだろう。危機意識がないため、会社の利益を最大化することを考えず、個人の利益を最大化することばかり考え、行動してしまうのだ。

    「こうした人事に直面しても、ジンさんは平静でした」

    当時を知る関係者は口を揃えてそう証言する。

    前田はどんなときも自分の感情を表に出さないタイプだった。とりわけ、部下の前では絶対に本心を見せなかった。

    かといって無愛想なわけではない。いつもニヤニヤ笑いを浮かべながらも、振る舞いはクール。それが前田のスタイルだった。

    永井 隆(ながい・たかし)1958年生まれ。フリージャーナリスト。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動を行う一方、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。 主な著書に『移民解禁』(毎日新聞出版)、『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『EVウォーズ』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)など。

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