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優秀な人間は左遷し、イエスマンを社長に……キリンを「暗黒時代」に突き落としたヤバすぎる人事の正体

    1992年10月から93年3月の期間限定で渋谷区の東急文化村前にオープンした「from DANCE」(フロムダンス)。プロデュースしたのは前田仁
    1992年10月から93年3月の期間限定で渋谷区の東急文化村前にオープンした「from DANCE」(フロムダンス)。プロデュースしたのは前田仁

    ノーマークの後継者

    「みなさんの関心は私の進退にあると思う」

    それは1991年12月9日夜、三菱グループの迎賓館である「開東閣」で開かれた、担当記者との懇親会の席上だった。

    「キリンの天皇」と呼ばれたキリンビール社長本山英世は、突然、自身の進退について語りはじめた。

    「4期8年社長を務め、ビール事業の基盤をなんとか固めることができた。今期はシェア50%達成も確実となった。よって、社長を引退するつもりだ」

    突然の「特ダネ」に、筆者をはじめ、出席していた記者は懇親どころではなくなっていた。

    会場には緊張がみなぎっていた。酒や料理に手をつける記者はいない。弦楽四重奏の生演奏が流れていたが、バイオリンの音色が余計緊張感を高めていた。

    本山が退任するとして、誰にバトンを渡すのか。

    記者の関心は、後任人事に集まる。

    だが、本山の話はそこまでだった。

    「後継者については、正月にゆっくり考えたい」

    核心の部分は語らなかったが、本山の表情は終始にこやかだった。

    「君たちは、誰が(次期社長に)相応しいと思う?」

    と、マスコミ嫌いの本山にしては珍しく、記者たちに問いかけさえした。

    「そんな重要な問題に、我々が軽々に口を出すわけにはいきません……」

    記者としてはそう返事をする他なかった。

    懇親会がお開きになった後、筆者を含めた各記者は、東戸塚にあった本山邸へ夜回りに訪れた。だが本山はやはり会ってはくれなかった。マスコミ嫌いの本山は、記者が夜回りに訪れても会わないのが通例だった。

    こっそり張り込もうとした記者は、本山の飼っている忠犬・麒麟丸に吠え立てられ、あえなく追い返されてしまった。

    情報がない中、マスコミ各社は、キリンの次期社長は誰か、勝手に予想し始めた。それをスポーツ紙の競馬コーナーよろしく、各紙それぞれ記事化していった。

    各社が予想する「大本命」は、ビール事業本部長だった中茎啓三郎だった。

    一方、実際に本山が後継者に指名した人物は、ほとんどの新聞が予想してしない「大穴」。予想が的中したのはわずか一紙だけだった。

    院政がもたらす暗黒時代

    「キリンの天皇」後継者がお披露目されたのは、懇親会から約1カ月ほど後のことだった。

    1992年1月9日午後、農水省3階にある農政クラブで開かれた記者会見に、本山に代わって3月から新社長となる男が登壇した。

    男の名前は真鍋圭作。前年からキリン専務を務めていたものの、マスコミ各社はほぼノーマークだった。

    真鍋はこのとき60歳。東京出身で、55年に東京大学法学部を卒業し、キリンに入社している。

    なぜ真鍋がノーマークだったかといえば、彼が人事部出身だったからだ。

    本山も、前任の小西秀次も、キリンの主流である営業出身だった。営業畑以外の社長は実に14年ぶりの出来事だった。

    記者会見の席上、真鍋は次のように語った。

    「本山社長が敷いた路線を継承し、ビール事業の着実な拡大を目指す」

    「自分にはカリスマ性はまったくない。今後カリスマになろうとも思わない」

    本山は真鍋を社長に指名した理由についてこう語った。

    「グループ発展のためには、今後医薬やバイオなど経営の多角化を推進しなければならない。そのためには適材適所の人事が必要だ。彼にはその能力がある」

    本山と真鍋の間には、実は深いつながりがあった。

    真鍋は人事部畑が長かったが、ある事情で窮地に陥り、人事部を離れなければならなくなった。

    このとき、背後で真鍋を助けたのが、当時まだ社長になって間もない本山だった。

    本山は真鍋を神戸支店に副支店長として異動させた。80年のことだった。

    このときの神戸支店長は桑原通徳。本山が大阪の営業マン時代から最大の信頼を置いた人物であり、前田仁の後ろ盾でもあった。

    この恩のために真鍋は本山に頭が上がらなかった。

    真鍋が新社長に就くということは、「キリンの天皇」本山の「院政」の始まりでもあった。

    社内で絶対的な権力を持つ本山の周囲には、イエスマンが集まっていた。

    アサヒの猛追を受け、初めてシェア50%を割り込むなど、厳しい経営環境が続く中でも、イエスマンたちは現実を直視せず、保身と権力闘争に明け暮れていた。

    「本山さんの見立てとは裏腹に、キリンのビール事業は完全には復活していなかった」と、当時を知る幹部は述懐する。

    事実、真鍋政権下のキリンは多くの問題が発生し、社内でも「第一次暗黒時代」と揶揄されるほど、厳しい状況を迎えることになる。

    1990年3月22日にキリンビールから発売された「一番搾り」は何度もリニューアルされている。87年3月17日発売にアサヒビールが発売した「スーパードライ」は一度もリニューアルされていない。
    1990年3月22日にキリンビールから発売された「一番搾り」は何度もリニューアルされている。87年3月17日発売にアサヒビールが発売した「スーパードライ」は一度もリニューアルされていない。

    「一番搾り」開発者を左遷

    一方、「一番搾り」を大ヒットさせたにも関わらず、閑職のワイン部門へ左遷された前田は、腐ることなく仕事に取り組んでいた。

    92年10月16日には、渋谷区円山町の東急文化村前に、キリン直営のワインレストラン「from DANCE」(フロムダンス)を、翌93年3月20日までの期間限定でオープンさせている。

    農業用温室を活用した、ガラス張りの店舗だった。

    そのモダンな空間の中で、ブイヤベースやスープフォンデュなどの欧風料理を気軽に楽しめるレストランだった。

    カロリーを4割抑えた微発泡性ワイン「ダンスライト」(白)など、この店限定のワインも提供していた。

    前田とともに「一番搾り」開発チームに最年少メンバーとして参加した島田新一は次のように指摘する。

    「お客様の生の声を聞いて、マーケティングに生かすのが前田流でした。机上の計算だけで商品を作るマーケターと、前田さんのやり方は根本的に違っていました」

    閑職に飛ばされながらも、前田は仕事にやりがいを見出しつつあった。だが、そこに追い打ちをかけるような事件が勃発する。

    「フロムダンス」の営業期間が終わる93年3月のことだった。

    前田に再び人事異動が発令されたのである。

    その内容は、さらなる左遷だった。

    「一番搾り」の功績に報いるどころか、前田にはさらなる閑職が用意されたのだった。

    今度はグループ傘下の洋酒メーカー、キリンシーグラム(現キリンディスティラリー)への出向を命じられたのである。

    キリンのマーケティング部はビール事業本部にあった。前田はワイン部門への異動を命じられてはいたが、かろうじてビール事業本部の内側にとどまっていた。

    「フロムダンス」などの仕事を評価されれば、再びマーケティング部へ戻るチャンスがあった。

    しかし子会社への出向となれば話は別だ。ビール事業本部から離れることになり、再び主流であるビールの新商品開発の仕事に就く可能性は限りなく低くなる。

    前田はこのとき43歳。

    社内外でも「天才マーケター」として知られつつあり、脂がのりきっていた。

    「一番搾り」でキリンに多大な貢献をしたにもかかわらず、あるいは逆にその貢献によって目をつけられたため、前田はキリン本社を追われることになる。”出る杭“は、打たれてしまった。

    伝説のリーダー前田仁氏。撮影は2012年
    伝説のリーダー前田仁氏。撮影は2012年

    本音をぶちまけた夜

    前田と同じ73年入社組である松沢幸一は、92年夏に京都工場から経営企画部に異動し、原宿のキリン本社で働いていた。

    マーケターの前田とエンジニアの松沢が同じチームで仕事をすることはなかった。

    だが、二人は不思議と馬が合ったという。

    前田は普通、「ジンさん」あるいは「マエジンさん」と呼ばれていた。

    ただ、前田と松沢は互いに「まえちゃん」「まっちゃん」と呼び合う仲だった。

    前田に子会社への出向が命じられた後、前田と松沢は「フロムダンス」の近くで待ち合わせた。

    花冷えのする夜だったが、渋谷は相変わらず若者で溢れ返っていたという。

    二人は雑踏をかき分け、路地の奥にある小さな飲み屋に入った。

    運ばれた瓶ビールを口にしてほどなく、前田はこう言ったという。

    「キリンは、なんて酷いことをする会社だろう……」

    ワイン部門への異動の際は、人事について何も言わなかった前田だったが、子会社への出向を前に、親しい松沢にだけ会社への憤りと、不満をぶちまけたのだった。

    前田はいつもダーク系スーツをカッコよく着こなしていた。職場では本心を表に出さず、クールに振る舞い、ダンディーを絵に描いたような男だった。

    だが、この時ばかりは前田は本音を吐露したのだった。

    「まえちゃん、やけを起こさず我慢してくれ。いつかきっと、会社が前ちゃんを必要とする時が来る」

    松沢は落ち着いた声で前田にそう語りかけ、慰め役に徹したという。

    前田のように「天才」と呼ばれるほど優秀な社員であっても、複雑怪奇な企業社会を生き抜くのは至難の業である。

    サラリーマンは、辞令一つで、どこにでも行かなければならないからだ。

    それだけに、本心を吐露できる友がいるかどうかは、仕事を継続していく上で、重要な要素と言えるだろう。

    二人が店を出ると、相変わらず渋谷の夜は賑わっていた。

    当時リリースされたばかりだったレニー・グラヴィツの「Are You Gonna Go My Way(自由への疾走)」がどこからともなく聞こえてきた。

    アップビートの独特なギターリフが繰り返された後、「I have come to save the day(俺は世界を救うためにやってきたんだぜ)」という歌詞が前田の耳に響いた。まるでその曲が前田を励ましているかのようだった。

    永井 隆(ながい・たかし)1958年生まれ。フリージャーナリスト。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動を行う一方、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。 主な著書に『移民解禁』(毎日新聞出版)、『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『EVウォーズ』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)など。

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