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 「引退した社長が経営に口を出す」日本企業の「ヤバすぎるガバナンス」がいまだに修正されない驚きの理由

    1989年の東証大納会は史上最高値の株価をつけ、威勢のいい手締めで取引を終えたが、90年代に入りバブルはあっけなく崩壊し、「失われた時代」へと入っていく
    1989年の東証大納会は史上最高値の株価をつけ、威勢のいい手締めで取引を終えたが、90年代に入りバブルはあっけなく崩壊し、「失われた時代」へと入っていく

    「天皇」の辞任

    前田仁が子会社への出向を命じられた1993年3月。

    日本社会は大混乱の真っ只中にあった。

    不動産価格の暴騰を制御しようと、大蔵省銀行局(当時)が1990年3月に「総量規制」を導入。不動産向け融資の伸び率が、貸出全体の伸び率よりも低く設定されると、不動産バブルは徐々に沈静化していった。

    それにともない、日経平均株価は、梯子を外されたかのように暴落をはじめる。

    90年8月には「湾岸危機」が発生。原油価格が上昇し、その影響は日本経済を直撃。景気全体が冷え込んでいく。

    1989年12月29日の大納会からわずか9ヵ月後、1990年10月1日の日経平均株価はついに2万円の大台を割り、ピーク時の約半分に値下がりしていた。

    経済が打撃を受ける一方、政治の世界でも大変動が起こっていた。

    92年には当時自民党副総裁の金丸信が、5億円もの闇献金を受け取っていたことが発覚、最終的には議員辞職に追い込まれるという「東京佐川急便事件」が起きた。

    その後「政治改革」を求める世論の高まりと、自民党内部の派閥抗争の激化を受けて、小沢一郎が新生党を旗揚げ。「政界再編」によって細川護熙政権が誕生し、自民党・社会党の55年体制が崩壊することになる。

    こうして世相が「平成」へ急速に移り変わっていく中、キリン本体にも時代の節目が訪れていた。

    「キリンの天皇」と呼ばれた男、本山英世会長が辞任したのである。

    総務担当副社長、常務とともに、不祥事の責任を取る形だった。

    唯一気を吐いた役員

    不祥事とは、前田がキリン本社を去って間もない93年7月に発覚した「総会屋への利益供与」事件のことである。

    現役社員から逮捕者を出すなど、名門企業としてのキリンの看板に、大きな傷がついた。

    後にキリンの社長・会長を務めた佐藤安弘は、2005年9月に連載した日本経済新聞の「私の履歴書」の中で、事件について次のように証言している。

    「七月一四日、警視庁捜査四課などは総務部の社員、元社員四人と総会屋八人を逮捕した(中略)当社が謝礼金などを支払った総会屋は四二人に及び、利益供与の総額は四千六百万円強に上ることが分かった(中略)警視庁の摘発には”一罰百戒”という印象も受けたが、許されない法令違反だったことも確かである(中略)騒然となった社内を見て非常時にこそ、ヒトの価値が分かると感じた。腹が据わっている役員もいれば、ガタガタと震えながら『自分も警察に呼ばれるのではないか』と繰り返す役員もいた。総じて、普段ペラペラと調子よくしゃべっていた人ほどダメだった」

    佐藤は58年にキリンへ入社し、当時子会社だった近畿コカ・コーラの立ち上げにおいて、資金調達に奔走する。

    佐藤はキリン主流の営業出身ではなく、事件当時は経理担当常務に就任したばかりだった。

    ただ佐藤は事件発覚後に、事件によって引責辞任した副社長の代役として総務担当へスライドする。

    事件当時、キリン本社に勤務していた社員はこう証言する。

    「事件が明るみに出て、キリンの役員たちは責任から逃げてばかりだった。みな自分のことしか頭にないように見えた。

    ただ、佐藤さんは違った。事件処理を直接担当したこともあるが、裁判でみずから証言台に立ったり、逮捕された社員と家族に寄り添うなど、腹を決めて真正面から事件に向き合おうとしていた。本社役員の中で唯一の”男”でした」

    佐藤安弘キリンビール会長(2001年11月当時)
    佐藤安弘キリンビール会長(2001年11月当時)

    いまさら他の生き方もできない……

    一方、本山は会長を引責辞任し、相談役に退いていた。事実上の名誉職で、実権はない。

    ただ本山は、会長を辞任して以降も、頻繁に会社へ顔を出していたという。

    サラリーマン社長が引退後も会社に足繁く通うのは、日本企業でよく見られる光景だ。

    ある日本企業では、大ヒット商品を生んだマーケターの元役員が、80歳を過ぎても会社に出社し続け、いろいろ意見を述べていたという。

    人生の大半を会社人間として過ごしてきたため、いまさら他の生き方をできなくなっているのだろう。

    一方、退任後は会社に一切顔を出さない元社長 もいる。そういう社長は、会社人間としての人生からうまく決別できた人なのだろう。

    本山としては、おそらく、

    「自分がいなければ、キリンはうまくいかない」

    という思いが強かったのだろう。

    ただ、本山から引き継いだ新経営陣にとっては余計なお世話でしかない。

    そもそも不祥事の責任を取って辞任した本山が、いつまでも会社に居座っていいはずがない。責任を負わない立場の人間が影響力を行使することにはガバナンス上の問題もある。

    「もう来ないでください」

    ただ、そんな本山に対して、キリンの役員たちは何も言えなかったという。

    そんな中ひとり気を吐いたのが佐藤だった。佐藤は本山に面と向かって「辞任したのだから、もう来ないでください」と注意したという。

    多くのキリン社員は内心、佐藤に拍手を送ったそうだ。

    もっとも、佐藤も晩年、本山とよく似た行動を取る。

    佐藤はのちにキリン社長に就任、社長を退任して会長に就任したのち、2004年に会長を辞し相談役に退く。が、その後、本山に倣ったかのようにキリン本社に出社し続けたという。

    その佐藤に向かって、「もう会社に来ないでください」と諫言(かんげん)する、”第2の佐藤”は現れなかったそうだ。

    ちなみに筆者は引退後の本山に取材したことがある。

    利益供与事件から2年近くが経った95年3月、キリンの原宿本社での取材だった。

    取材の内容がキリンの経営問題ではなく、本山が通った旧制開成中学(現開成中学・高校)についてだったこともあり、本山はいつになくリラックスしていた。

    伝説のリーダー前田仁氏。撮影は2009年ビバレッジ在籍時
    伝説のリーダー前田仁氏。撮影は2009年ビバレッジ在籍時

    「鬼」が「好々爺」に

    「お前は一匹狼になっていたのか……。会社が潰れて大変だったろう」

    と、筆者の境遇を気遣ってくれたが、マスコミ嫌いの本山には珍しいことだった。

    その日本山は柔道に没頭した中学時代について嬉々として語ってくれた。

    かつて「天皇」「鬼」とよばれた絶対権力者の面影はなかった。代わりに日本全国どこにでもいる好好爺の姿がそこにあった。当時本山は69歳になっていた。

    80年代前半にキリンに入社し、営業、マーケティングなどに従事した元幹部は、本山についてこう話す。

    「本山さんはとにかく怖かった。仕事には厳しく、若手に対しても容赦がなかった。本山さんの周りには独特の緊張感が漂っていた。ただ、あの張り詰めた空気の中で働けたことで、自分は鍛えられたと思う」

    6割を超える国内シェアを持っていたキリンには、むしろ弛緩(しかん)した空気が覆っていた。

    そんなキリンにおいて、本山はむしろ異質な存在だった。ある意味、本山のような厳しいトップのおかげで、キリンは大崩れを免れていたのかもしれない。

    事実、本山の撒いた種は、その後花開くことになる。現在のキリンにおいて重要な事業となっている医薬やバイオ、花卉、外食などは、経営多角化の一環として80年代に本山が始めたものが大半だ。

    永井 隆(ながい・たかし)1958年生まれ。フリージャーナリスト。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動を行う一方、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。 主な著書に『移民解禁』(毎日新聞出版)、『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『EVウォーズ』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)など。

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