人類学的思考は、虫の目で文脈を示してくれる新たなフレームワーク=評者・藤原裕之
『ANTHRO VISION(アンソロ・ビジョン) 人類学的思考で視るビジネスと世界』 評者・藤原裕之
著者 ジリアン・テット(『フィナンシャル・タイムズ』米国版編集委員会委員長) 訳者 土方奈美 日本経済新聞出版 2420円
虫の目で文脈を示してくれる 新たなフレームワーク
私たちは何かを見過ごしている。経済予測や金融モデルは当たらず、消費者調査は判断を誤らせる。ビッグデータのような鳥の目は「何が」起きているかは教えてくれるが、それが「なぜか」は教えてくれない。必要なのは虫の目をもって文化やコンテクスト(文脈・背景)が自らの世界の捉え方にどう影響しているかを理解すること。社会人類学者でジャーナリストの著者が、自身の経験や第三者のエピソードを引きながら人類学的思考を使って見過ごされているものを浮かび上がらせる。
人類学の利点は、異質な他者の世界を「身体化」し、思いを共有することにある。キットカットの日本での売れ行きに苦戦していたネスレは、九州の受験生がキットカットをお守りとして購入していることを知り、キャッチコピーを「ハブ・ア・ブレイク」から「キット、サクラサクよ」に変更する。受験の際の「お守り」という位置付けが功を奏し、キットカットは日本で最も売れているチョコレート菓子となる。「未知なるもの」を身近なものへ変えることの重要性が学べる。
人類学のもう一つの利点は「自らにレンズを向けること」にある。著者は2005年の金融フォーラムで、投資銀行の関係者がCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)のようなほとんどの人が理解できない言葉を駆使しながら議論する光景にショックを受ける。金融は人と人の相互作用や文化と深くかかわっている。「身近なもの」を未知なるものへ変える人類学的視点があれば、金融バブルはあれほど膨らまず、弾けたときの影響もあれほど悲惨にはならなかったと著者は指摘する。
リモートワークではオフィスのようにうまくいかないことも多い。オフィスワーカーはロジックだけで判断をしているわけではない。周囲の会話を漏れ聞くことや、隣の人とのおしゃべりなど、集団としてさまざまな情報源に反応し情報を引き出している。センスメーキングという人類学のフレームワークを使えばオフィスの意義もクリアに理解できる。
人類学的視点を身につけるにはどうすべきか。「誰もが生態学的、社会的、文化的環境の産物だと理解する」「自然な文化的枠組みはひとつでないことを受け入れる」「他の人々の思考や生き方に没入する方法を探す」「アウトサイダーの視点で世界を見直す」「社会的沈黙に耳を澄ます」の五つの方法を著者は提示する。
今ほど人類学の視点が必要とされている時代はない。著者のメッセージが重く響く一冊だ。
(藤原裕之・センスクリエイト総合研究所代表)
Gillian Tett ケンブリッジ大学で社会人類学の博士号を取得。フィナンシャル・タイムズ社東京支局長、同紙米国版編集長を経て現職。著書に『愚者の黄金』(フィナンシャル・ブック・オブ・ザ・イヤー受賞)など。