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ハーバードは「人種差別」をしているのか㊤ 黒人に大学への道を開いたアファーマティブ・アクション

ハーバード大学のアファーマティブ・アクションはアジア人差別だと訴える人々 Bloomberg
ハーバード大学のアファーマティブ・アクションはアジア人差別だと訴える人々 Bloomberg

私たちには理解できない、世界一の超大国アメリカの全貌に迫る連載「日本人の知らないアメリカ」。ここまで、妊娠中絶や銃規制問題など、アメリカが抱える問題のほとんどが、人種差別に起因していることをみてきたが、今回はその人種差別問題の根幹に関わるテーマを取り上げたい。ハーバードなどの一流大学における「人種優遇措置」の是非についてである。

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 アメリカ政府は1965年、長い間、教育差別を受けてきた黒人の大学への入学を促進するため、黒人などに有利な枠を設ける「アファーマティブ・アクション(affirmative action、積極的差別是正措置)」を導入した。保守派の白人は、「白人に対する逆差別」であると批判してきたが、最高裁はこれまで一貫して“合憲”と判断してきた。ところが、最高裁の保守化が進む中で、アファーマティブ・アクションに違憲判決がくだされる可能性が浮上しているのである。

最高裁がハーバード大学とノースカロライナ大学の2件の訴訟の審理を決定

 最高裁は1月24日、「公平入学のための学生対ハーバード大学裁判(Students for Fair Admissions Inc . v. President & Fellows Harvard College)」と「公平入学のための学生対ノースカロライナ大学裁判(Students for Fair Admissions v. University of North Carolina at Chapel Hill)」を受理し、10月から始まる次期最高裁年度に審理を行うと発表した。

 NPO「公平入学のための学生(以下SFFA)」は、2014年にハーバード大学が入学選考過程で黒人やヒスパニック系の受験者を優遇し、“アジア人アメリカ人受験者を差別”していると主張して大学を訴えた。訴訟の内容は、ハーバード大学は人種差別を禁止している「公民権法」に違反しているというものである。

 これに対してハーバード大学は、アジア人学生に対する差別は存在しないと主張する一方、人種を意識した選考は“合法”であると反論している。

ハーバード大学の「アファーマティブ・アクション」の是非に注目が集まる Bloomberg
ハーバード大学の「アファーマティブ・アクション」の是非に注目が集まる Bloomberg

 2019年、連邦地裁と連邦控訴裁はいずれも「入試選考過程で人種を考慮するのは適切である」と判断。さらに連邦控訴裁は「ハーバード大学の選考制度は完全なものではないが、法的な基準を満たしている」「ハーバード大学がアジア系アメリカ人を不当に扱っている事実を見つけることはできない」と大学の主張を認めたうえで、「原告の主張は過去の裁判で否定された根拠を蒸し返しているだけだ」と、SFFAの主張を厳しい言葉で裁断した。SFFAは最高裁に上告、最高裁がこれを受理し、審理を行う決定をくだした。

 ノースカロライナ大学チャペル・ヒル校を被告とする訴訟では、原告のSFFAは入学選考過程で同大学が黒人やヒスパニック系アメリカ人、ネイティブ・アメリカンを優遇し、白人の応募者を差別していると訴えた。SFFAは、同大学は州立大学で、憲法が保障する「法のもとでの平等」の規定に反するとの主張を展開した。

 他方、大学は、選考過程で人種的要因を考慮していることを認め、「選考は学生と“教育の多様性”を高めるために行っており、従来の最高裁判決に準拠したものである」などと反論している。

 2021年10月、連邦地方裁判事は「同大学は“人種中立的”な入試選考を考慮する誠意ある努力を行っている」とSFFAの主張を退けた。この判決を受け、SFFAの代表者エドワード・ブルム(Edward Blum)は「連邦控訴裁と最高裁に裁判を持ち込む」と対抗姿勢を見せていた。

 ちなみにノースカロライナ大学の2022年度の新入生5630名のうち、白人は65%、アジア系アメリカ人とアジア人は21%、黒人が12%、ヒスパニック系アメリカ人が10%、ネイティブ・アメリカンは2%であった。

オバマ大統領はアファーマティブ・アクションを支持した
オバマ大統領はアファーマティブ・アクションを支持した

 今回、最高裁が上訴を受理し、審理することを決定したことに対し、ローレンス・ブラウン・ハーバード大学学長は「最高裁の審理は、過去40年間の判例によって大学に与えられてきたキャンパスの多様性を作り出す自由と弾力性が失われる可能性がある」という声明を出し、最高裁判決に懸念を示している。

 アファーマティブ・アクションを巡る裁判は、単なる入学選考の方法論に留まらず、政治的な色合いを帯びている。オバマ大統領はハーバード大学の人種を考慮した選考方法を支持する立場を明らかにしたが、トランプ大統領は批判的な立場を取った。トランプ政権下で9名の最高裁判事のうち保守派の判事が6名を占めるようになったことで、最高裁がアファーマティブ・アクションを違憲とする判決を下すのではないかという見通しが出始めたのである。

トランプ大統領はアファーマティブ・アクションに反発した Bloomberg
トランプ大統領はアファーマティブ・アクションに反発した Bloomberg

 もしアファーマティブ・アクションに違憲判決がでれば、大学の入試選考過程が根本的に変わることになり、40年に及ぶ黒人差別解消に向けた努力が水泡に帰すかもしれない。

「アファーマティブ・アクション」という言葉の誕生

 さて、ここで、「アファーマティブ・アクション」という言葉の意味について考えてみよう。言葉の真の意味を理解するには、語源を探る必要がある。

 アファーマティブ・アクションという奇妙な言葉が初めて登場したのは、1961年3月6日にケネディ大統領が署名した「大統領令10925号」である。この大統領令の中に次のような一文がある。「政府と取引する請負企業(contractor)は、人種、信条、肌の色、あるいは出身国を理由に従業員あるいは応募者を差別してはならない。企業は、応募者が雇用され、雇用期間中に人種や信条、肌の色、出身国に関係なく、確実に取り扱われるように“積極的な行動(affirmative action)”を取らなければならない」。これが、アファーマテフィブ・アクションの語源である。

 その後、公民運動の盛り上がりを背景に1964年に「公民権法」が成立した。それを受けてジョンソン大統領は1965年9月、「大統領令11246号」に署名し、差別禁止条項をより具体的かつ広範に規定した。年間、政府との取引額が1万ドルを超える請負企業、下請け企業民間企業が差別禁止の対象となった。

 アファーマティブ・アクションはアフリカ系アメリカ人の雇用と大学入学に際して優遇措置を講ずることを目的としたものであるが、大学入学に対する優遇措置として理解されるようになったのは、1965年6月にジョンソン大統領がハワード大学で行った演説がきっかけだ。ジョンソン大統領は、演説の中で次のように語っている。

「『あなたはもう自由なのだから、好きなところに行けるし、好きなことができる。好きな指導者を選ぶこともできる』と言うだけでは、何世紀にわたって黒人が負ってきた傷を拭い去れるものではない。『これからは他の人と自由に競争ができる』と言うだけでは、何年も鎖に繋がれ、よろよろと歩いてきた人を同じ競争のスタート・ラインに立たせることはできない。このことは、公民権の闘いの次の、さらに重要な段階である。私たちが求めているのは自由だけではなく、機会である。単に法的な平等だけでなく、人間の能力の機会である。権利や理論としての平等だけでなく、事実として、また“結果としての平等”である」

 ジョンソン大統領の演説の最大のポイントは、黒人に対して「機会の平等」を保証するだけでなく、現実的な「結果の平等」の実現を求めたことである。

南北戦争終結、奴隷制度廃止後も続いた黒人差別

 ジョンソン大統領が、黒人に「機会の平等」を与えるだけでは差別問題は解決しないと語った背景には、長い奴隷制度と人種差別の歴史がある。多くの日本人は、南北戦争によって奴隷制度は廃止されたと教えられている。奴隷制度廃止後の黒人の運命について学校で教えられることもなく、関心を持つのは難しいだろう。簡単に解説しておこう。

黒人差別解消に向けた人々の努力が水泡に帰す可能性も… Bloomberg
黒人差別解消に向けた人々の努力が水泡に帰す可能性も… Bloomberg

 南北戦争が終わった1865年に「憲法修正第13条」が成立し、「奴隷制および本人の意思に反する苦役は国内に存在してはならない」と奴隷制度の廃止が決定された。だが、奴隷制度を廃止すればすべての問題が解決するというわけではなかった。奴隷から解放された黒人にはまだ、 “市民”としての権利を確保するという問題が残されていた。黒人の「公民権」を確立する必要があったのである。

 そこで1868年に「市民権、法の適正な適用、平等権」を規定した「憲法修正第14条」が成立し、法律上、黒人にも白人と同様の市民権が付与された。

 だが、すべての州が同修正条項を批准したわけではない。当時の州の数は37州で、批准に必要な州の数は28州であった。修正条項が発行する1868年7月9日までに批准した州は28州で、南部の9州は批准していなかった。南部連合の加盟州は戦争で敗北しにもかかわらず、黒人に対する差別を捨て去ったわけではない。言い換えれば、南部連合に加わった州は南北戦争の敗北を受け入れていなかった。

 南北戦争後、連邦政府は連邦軍を南部諸州に駐在させ、南部を軍事支配のもとに置き、南部連合の指導者を公職から追放した。同時に「解放民局」という連邦政府の組織を設置して、南部における黒人差別の取り締まりにあたった。こうした一連の連邦政府の政策は「南部再建」と呼ばれている。だがこの政策は結果的に“失敗”に終わった。南部での黒人差別の意識と構造を変えることはできなかったのである。

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 やがて旧南部連合の指導者が公職に返り咲き、黒人差別はさらに強化され、「南部復古」が始まった。これによって南北戦争の成果は完全に空洞化された。黒人は奴隷制度から解放されたが、さらに厳しい人種差別に直面することになった。

法で容認された黒人への「差別」と「隔離」

 1875年に公共の場での黒人差別を禁止する「公民権法」が成立した。だが1883年に最高裁は、同法を違憲と判断した。さらに最高裁は1896年に「プレッシー対ファーグソン裁判」で、「黒人は隔離されていても平等である(separated but equal)」という判決を下した。その結果、南部では黒人の「差別」と「隔離」が容認されるようになった。地理的に黒人の住む場所は白人社会から隔離された。

 同時に、黒人の投票権を制限する「ジム・クロウ法」が南部諸州で成立し、黒人は民主主義で最も重要な投票権を奪われた。黒人が公民権と投票権を回復するのに、1964年の「公民権法」と1965年の「投票権法」の成立まで待たなければならなかった。

 黒人の隔離政策は、教育にも及んだ。白人と黒人の学校は分断され、それぞれ別々の学校に通った。黒人学校には十分な資金が提供されず、黒人生徒は劣悪な教育環境での学習を強いられた。黒人の若者たちは十分な初等中等教育を受けることができず、大学への進学の道もほぼ閉ざされていた。十分な教育を受けることができなかった黒人の若者たちは高賃金の職に就く機会も限られた。

 白人と黒人の教育分離は、1954年の「ブラウン対教育委員会」裁判で最高裁が公立学校における白人と黒人の人種分離は違憲であるという判決を下すまで続いた。

最高裁初のヒスパニック系判事、ソニア・ソトマイヨール氏は「もしアファーマティブ・アクションがなければ(プリンストン大学に)入学できなかっただろう」と述べている Bloomberg
最高裁初のヒスパニック系判事、ソニア・ソトマイヨール氏は「もしアファーマティブ・アクションがなければ(プリンストン大学に)入学できなかっただろう」と述べている Bloomberg

 こうして、長く大学進学の道を閉ざされてきた黒人への大学教育は、アファーマティブ・アクションを通して実現した。大学入学に際し、特に黒人やヒスパニックの受験生は優先的に入学を認められた。最高裁の最初のヒスパニック系の判事に就任したソニア・ソトマイヨール判事はプリンストン大学に入学しているが、後日、「もしアファーマティブ・アクションがなければ入学できなかっただろう」と語っている。

 ところが、大学入試で黒人やヒスパニック系アメリカ人受験生を優遇することに対して、白人の受験生からに白人に対する“逆差別(reverse discrimination)”であるとの批判が出始める。そして、アファーマティブ・アクションは違法であるという訴訟が起こされる。

 後編では、アファーマティブ・アクションをめぐる法廷闘争について論じる。

後編につづく>>

中岡 望(なかおか のぞむ)

1971年国際基督教大学卒業、東京銀行(現三菱UFJ銀行)、東洋経済新報社編集委員を経て、フリー・ジャーナリスト。80~81年のフルブライト・ジャーナリスト。国際基督教大、日本女子大、武蔵大、成蹊大非常勤講師。ハーバード大学ケネディ政治大学院客員研究員、ワシントン大学(セントルイス)客員教授、東洋英和女学院大教授、同副学長などを歴任。著書は『アメリカ保守革命』(中央公論新社)など

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