建国以来の分断国家だったアメリカの南北戦争の恐るべき対立を死者の数を知らない日本人
私たちには理解できない、世界一の超大国アメリカの全貌に迫る「日本人の知らないアメリカ」。3回目は南北戦争の歴史を説く。
アメリカではいまも南北戦争が続いているという声が聞こえる。しかし、日本人が意外に知らないのが南北戦争の意味である。
学校で学ぶのは、南北戦争は奴隷解放戦争であり、その時のリンカーン大統領が「奴隷解放宣言」を出した程度の知識である。だが、現在のアメリカ社会が直面している多くの問題は南北戦争を起源としている。
南北戦争を理解せずして、アメリカの社会と政治を理解することはできないと言っても過言ではない。
奴隷制と産業政策をめぐる対立
アメリカは建国以来、南部と北部は常に対立関係にあった。
「地域的分断」が存在していた。
まず奴隷制度を巡る対立があった。農業に依存する南部では奴隷労働は不可欠であった。
これに対して工業や金融産業が発達していた北部は奴隷制度に反対していた。
もうひとつは、産業・通商政策を巡る対立である。
自由貿易をすすめ、農産物の輸出拡大を主張する南部と、関税を引き上げて国内産業の保護育成を主張する北部の経済的対立もあった。
アメリカでは南北戦争とは言わない
奴隷制度を認めている州を「奴隷州」、奴隷制度を認めていない州を「自由州」と呼んだ。
南北戦争は1861年から65年まで続いた北部と南部の「内戦」である。
日本では「南北戦争」と表現するが、アメリカではそうした言葉はなく、「内戦(the Civil War)」という。南部が連邦から“分離独立”を目指した戦争であった。
奴隷制度廃止のリンカーン大統領の誕生がはじまり
1860年の大統領選挙で共和党のリンカーン候補が勝利した。
共和党は奴隷制度に反対する政党であり、リンカーン大統領の誕生で南部は危機感を抱いた。
ただ奴隷制度を採用するかどうかは州に決定権があり、連邦政府に介入する権限はなかった。
リンカーン大統領も就任演説で、州の奴隷制度に干渉しないと明言していた。奴隷制度以外にも関税を巡る対立もあった。
長年続いていた対立が頂点に達し、1861年3月4日にリンカーンが大統領就任した1カ月後に南部は「南部連合」を設立し、分離独立を宣言し、政府軍に攻撃を仕掛け、戦争が始まった。
ただ奴隷州がすべて南部連合に加わったわけではない。
加わったのはバージニア州、テネシー州、ノースカロラナ州など7州で、デラウエア州やケンタッキー州など5州は連邦に残った。
国民の2%、70万人が死んだ戦争。
戦いは壮絶で、戦闘で推定70万人が戦死している。
当時の人口は3144万人であった。戦死者の比率は2%強である。現在、アメリカのコロナウイルスによる死者数は50万人を越え「第一次世界大戦、第二次世界大戦とベトナム戦争の合計死者数を超えた」と問題となっているが、その比ではない。
現在の人口は約3億3000万人であるから、現代なら700万人をこえる内戦だった。南北戦争での死亡者の数は想像を絶するものであった。
軍事力では新たに設立された南部連合より連邦政府軍の力が圧倒的に強かったが、南部軍は激しく抵抗した。
その背後に奴隷制度や経済的な対立を超える妥協を許さない政治的、文化的な違いがあったからだ。
連邦主義vs中央集権
政治的には、南部は州の権限を重視する「連邦主義」を求めたいたのに対し、北部は強力な中央集権国家の設立を目指していた。
こうした国家観の違いが双方に妥協を許さなかった。
文化的には、南部連合には「南部こそアメリカの伝統的な価値観と文化を支えている」という強い自負心があり、連邦軍がそうした価値観を蹂躙していると受け止め、激しく抵抗し、総力戦となった。
産業力の違いが戦いを決めた
だが戦争が長期化するにつれて、産業力の違いが軍事力の違いとなって表面化し、連邦軍が次第に有利に戦いを進めるようになった。
動員された兵士の数は、連邦軍が約160万人、南部連合が90万人であった。戦況を決定したのは、最終的には経済力と軍事力の差であった。
完全に廃止されなかった奴隷制度
南北戦争はアメリカに多くの変化をもたらした。
まずリンカーン大統領が奴隷解放宣言を行い、南部の奴隷制を廃止する決定をしたことだ。
ただ奴隷解放宣言でアメリカから奴隷制度が廃止された訳ではない。南部連合に参加しなかった奴隷州は奴隷制度を維持することが認められていた。完全に奴隷制度が廃止されるのは、1865年に憲法修正第13条が批准されてからである。
戦後は黒人が公職に
次に連邦政府が州政府に対して圧倒的な立場を確立したことだ。それによって国家観を巡る争いに終止符が打たれた。
連邦政府は南部に連邦軍を配置し、南部を“軍事統制”のもとに置いた。これは「南部再建法」に基づいて実施された。
同時に解放奴隷の人権を擁護するために南部に「解放民局」と呼ばれる政府機関が置かれた。
こうした連邦政府の努力もあり、黒人が公職に就くようになった。ルイジアナ州と南カロライナ州では、一時、黒人が州議会の過半数を占めた。
公職に復帰した南部連合の旧指導者
だが南部統治は思い通りには進まなかった。
リンカーン大統領の暗殺後に大統領に就任したアンドリュー・ジョンソン大統領は南部に融和的で、共和党過激派と対立し、弾劾裁判にかけられた最初の大統領となった。
共和党内にも南部に妥協する動きが出てきて、1872年に議会は南部連合の指導者500人を除き、すべての“恩赦”を認める法律を成立させた。
この法律で南部連合の多くの指導者は処罰されることもなく、公職に復帰できるようになった。南部連合の旧指導層は権力の座に復帰し、南北戦争の成果をすべて否定するようになる。
開票で混乱した1876年の大統領選
1876年の大統領選挙は、2020年の大統領選挙と同様に開票を巡って紛争した。
共和党の大統領候補ヘイズは一般投票で負けていたが、南部の票が欲しいために、南部から連邦軍の撤兵を条件に民主党の支持を得て大統領に就任した。
これは「1877年の妥協」と呼ばれ、連邦政府による南部統治の終わりを意味した。これによって連邦政府は南部の黒人の人権問題に対する責任を放棄したのである。
変わらなかった南部の白人至上主義の意識
ヘイズ大統領は1877年に連邦政府は南部再建が終了したとして、民主党への約束に従って連邦軍を南部から撤収する。
そして「南部復古」が始まった。旧南部連合の指導者が次々に復活した。
解放奴隷(黒人)に対する新たな差別と弾圧も始まった。黒人は小作人や季節労働者になり、厳しい労働を強いられた。
支配者たちは学者を動員して人種的に黒人は劣るという研究を発表させ、「白人至上主義」のイメージを作り上げた。
南北戦争での敗北にも拘らず、南部の人々の意識は変わらず、白人至上主義者の秘密組織KKKは南北戦争が終わった直後にテネシー州で結成されている。
「平等であれば隔離してもよい」と最高裁
さらに黒人抑圧は強まり、政治から排除されていく。
南部の州は「ジム・クロウ法」という黒人の投票を阻止する法案を相次いで成立させた。
投票権を抑制することで、政治の白人支配を確実にした。同時に黒人の隔離政策を始める。最高裁も「平等であれば、隔離しても良い」という判決を下し、隔離政策を容認した。
分断を大きくした南北戦争
アメリカは建国以来、「分裂国家」であった。
南北戦争は「第2の建国」と呼ばれており、新しい統一国家を構築する絶好の機会であった。
だが連邦政府の南部政策は失敗に終わり、旧態依然として南部の政治体制が温存され、黒人差別が強化された。
統一どころか分断をより大きなものにしてしまった。
本当の民主選挙はわずか56年前だった
黒人が公民権を認められ、投票権を保証されたのは1964年の「公民権法」と1965年の「投票権法」によってである。
アメリカは民主国家といわれるが、本当に普通選挙が実施される民主国家になったのは1965年である。だが、現在でも南部では黒人の投票権を抑圧する法律が新たに成立している。
トランプ誕生で一気に吹き返した白人至上主義
南部の白人至上主義は一見表面から消えたように見えたが、むしろ潜在化し、生き残っていた。それがトランプ大統領の誕生で一気に姿を現した。
現在でも南部の人々は、「南部再建法」で連邦政府に支配された屈辱感を抱き続けている。
トランプ支持者は南部連合の旗を掲げ、連邦政府からの分離独立を叫んでいる。アメリカの分断はもはや修復しがたい状況にあるが、その根本的な原因は南北戦争の南部支配の失敗にある。
アメリカが「統一国家」になる唯一のチャンスを逃してしまったのである。
現在、まだ「南北戦争」が続いているという指摘もある。それには、こうした背景があるからである。
(中岡望・ジャーナリスト)