今までの都市の論理に対抗する建築をつくる 建築家、隈研吾さん
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コンクリートから木へ
隈研吾 建築家、東京大学特別教授、名誉教授/32
自身を日本建築界のターニングポイントだったと語る隈研吾さん。半生を振り返り、「隈スタイル」が世界ブランドとして確立された経緯を語ってもらった。
(聞き手=内田誠吾・ジャーナリスト)
── 隈さんの建築スタイルが確立されたのはいつですか。
隈 広重美術館(栃木県那珂川町、2000年)です。この仕事が世界で認められ、海外の仕事が一気に増えました。隈研吾のスタイルができた瞬間だったと思います。(情熱人)
── M2(マツダの複合ビル、東京都世田谷区、1991年)の後、都心ではなく地方の仕事を中心に行ってきました。
隈 私が建築事務所を開いた86年はちょうどバブルの真っ最中で、都心は資本を使い、目立つ建築をつくるというロジックが一挙に広まった時代でした。基本的には、今でも都心はそのロジックが支配する世界だと思っています。バブルが崩壊し、都心の仕事がみんなキャンセルされて、都市のロジックから逃れて田舎に行けたのは私の建築スタイルを確立するうえで大きかったと思います。
── 地方の仕事で印象的だったのは。
隈 最初の仕事が高知県梼原(ゆすはら)町の地域交流施設でした。梼原町は高知空港から3時間半もかかるような田舎町で、林業と芝居小屋を活用して何とか町を残したい、消えないようにしたいという人たちと付き合えたのは大きかったと思いますね。
そこで初めてコンクリート以外の素材である木の本質や、木を通じた生態系の循環システムの強さを知ることができた。そういうものを使うことで、今までの都市の論理に対抗する建築をつくることができるのではないかと感じたんですね。
梼原町で初めて木を使い、広重美術館では屋根も壁も全て木のルーバー(細長い羽板を、隙間(すきま)を空けて平行に並べたもの。日よけ、雨よけ、換気、目隠しなどに使われる)を使い、隈スタイルというものができて、世界のブランドになれたという気がしますね。
新しい日本ブランド
── 日本は、戦後日本のモダニズム建築のチャンピオン丹下健三、丹下門下の磯崎新、黒川紀章、槇文彦といった流れがあります。
隈 私自身が建築界のターニングポイントだと思います。丹下さんからの流れというのは、日本風のミニマルな(装飾を最小限にそぎ落とすことが効果的であるとする)感性とコンクリートの出会いによって世界に評価されたモダニズムと位置付けられるわけですよね。
それに対し、私はコンクリートを否定した日本ブランドを確立できたのではないかと思います。今の若い人は自由に木を使えるようになり、建築雑誌をめくると昔と色が違う。昔はコンクリートのグレーばかりですが、今は半分以上も木になるほど状況が変わりました。丹下さんに代表されるコンクリートとミニマリズムが高度経済成長の象徴であるのに対し、少子高齢化・低成長下では、コンクリートの箱ものより身近で親しみやすい空間が欲しいと思い始めており、私の建築がフィットしてきたのではないかと思います。
── 隈さんの建築に対する考え方については、「切断」や「関係性」という言葉がキーワードのように思います。
隈 すべての建築は、環境の中で人間が打ち立てた特異点である以上、切断は建築の宿命といえます。コンクリートはあらゆる造形をも可能とし、とても強い建築素材です。しかし同時に、あらゆる場所や自然がコンクリートという一つの技術、単一の哲学で同一化されてしまう。その意味では20世紀は寂しい世紀でもありました。多様な場所や自然がコンクリートという単一技術の力で破壊されてきたといえます。
構築的なものに対する批判
── 著作『点、線、面』では、そのように破壊されたものを回復する手法を模索した。
隈 コンクリート建築は無意識にボリューム(量塊)を志向してしまいます。私はそうしたボリュームを点、線、面に解体し、風通しをよくしたいと思いました。例えば、木を使うにしても単に仕上げ材として使うのではなく、アオーレ長岡(新潟県長岡市、12年)のように、いろいろ隙間がいっぱい空くように使います。隙間がいっぱ…
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週刊エコノミスト
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