教養・歴史書評

優れたマーケッターを目指す人々と彼らを支える人々に勧めたい好著=評者・加護野忠男

『キリンを作った男 マーケティングの天才・前田仁の生涯』 評者・加護野忠男

著者 永井隆(ジャーナリスト) プレジデント社 1980円

「一番搾り」「淡麗」「氷結」……ヒット商品を次々に放った秘密

 アサヒビールの「スーパードライ」に対抗してキリンビールを復活させるきっかけを作った新ブランド「一番搾(しぼ)り」。“コアなファンに愛される”というコンセプトの「ハートランド」。発泡酒「淡麗」と「淡麗グリーンラベル」、ビールとも発泡酒とも違う原料・製法で作られた“第3のビール”「のどごし」。缶チューハイ「氷結」。これらのブランドや商品を立て続けに成功させた伝説のマーケッター・前田仁氏の人物論である。

 著者は30年以上キリンビールならびにビール産業を観察してきたジャーナリストである。読み応えのある叙述の中にキリンのトップ交代、サントリーとの合併騒動など、読者の関心を引く出来事にまつわる多様なエピソードが紹介されている。

 本書は人物論に重点が置かれているが、マーケティングをより深く理解するための重要な論点がいくつか隠されている。第一は、マーケッター個人の姿勢と人格についての論点である。自分の栄達よりも、愚直に顧客価値を追求するという基本姿勢、すぐに成果が出なくても右往左往しない堂々とした仕事ぶりなど、マーケティングを指揮する人物の人格の大切さである。

 第二は、マーケティング理論をめぐる論点。マーケティング理論の教科書に照らして本書を読めば、前田氏のやり方が基本にかなったものであることが分かる。徹底して顧客となるターゲットを絞り込み、その顧客が価値を認める製品属性を一貫して追求する前田流マーケティングは、基本理論そのままである。

 第三は、マーケッターを支える人々について。まずマーケッターが求める製品属性を実現する開発チームについて述べ、次にマーケッターを社内のあつれきから守る保護者としての上司の重要性を強調する。前田氏自身もマーケッターを卒業した後は、後輩のマーケッターを守る上司として保護者になっている。

 そして4番目は、対話の場所を作ることの大切さである。前田氏は、顧客との対話を重視することはもちろん、そのための対話の場を作ることにも腐心していた。どこにも「キリン」の看板がなく、来店客がキリンの直営店舗と知らずに素直な感想を述べ合う「ビアホール・ハートランド」がまさにその具現化であり、前田氏にとっての「実験室」だったのである。その前田氏は20年、70歳で亡くなった。

 優れたマーケッターを目指す人々と、それを支える人々にお勧めしたい好著である。本書から多くのヒントが得られるだろう。

(加護野忠男・神戸大学特命教授)


 永井隆(ながい・たかし) 1958年生まれ。日刊紙『東京タイムズ』を経てフリー。自動車、外国人労働者などさまざまなテーマを追求し、中でもビール産業に最も長い歳月をかけている。『ビール15年戦争』など著書多数。

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