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「転ばぬ先の杖」を用意する高齢者ほど「運転免許を返納しない」=佐々木周作

 将来に向けて資産形成や相続の準備をしている高齢者と、準備をしていない高齢者。「運転免許を返納したかどうか」を聞いてみると、意外な結果になった。

行動経済学の「せっかちさ」が低い人ほど運転免許を長く所持=佐々木周作

 日本社会の高齢化が進む中で、75歳以上の運転免許保有者数は、2009年から19年にかけて約1・8倍に増えている。運転免許保有者数に高齢者が占める割合も年々上昇傾向にある。

 75歳以上のドライバーによる死亡事故件数はほぼ横ばいか、減少傾向で推移しているが、19年に東京・池袋で起きた自動車暴走事故などをきっかけに、免許の返納を検討したり、家族から免許の返納を促されたりした高齢者も多いのではないだろうか。ただ、いずれは免許を返納する必要があることを自覚してはいても、今すぐ返納するかと問われると、決めかねてしまう人も多いことだろう。

将来の価値を割り引く人

 ここで、高齢者が免許の返納についてどのように考え選択しているのかを、行動経済学の「せっかちさ」の観点から分析した結果を紹介しよう。

 せっかちさとは、「現在」と「将来」の選択肢を比較する、異時点間の意思決定に関する特徴として定義される。例えば「今すぐ、1万円を受け取る」「1年後、1万1000円を受け取る」という二つの選択肢を提示されたときに、前者を希望する人を「今すぐ1万円を受け取るために1000円分の追加利得を放棄するせっかちな人」と分類する。この傾向は、「近視眼的」「時間割引率が大きい」とも表現される。割引という言葉は、将来の価値を割り引いて評価することを意味する。つまり前者を希望する人は、将来の1万1000円を割り引いて評価し、今日の1万円よりも価値が低いものと捉えていると解釈できる。

 米国では、ハフマンという研究者らがせっかちな高齢者ほど純資産額が少なかったり、終末期のための準備をしていなかったりするという調査結果を報告している。つまり、将来の価値を割り引いて評価しがちな高齢者ほど、将来に向けた準備をしていないということである。

 では、運転免許証の返納は、せっかちさとどのように関係するのだろうか。運転免許証の返納もまた「将来に向けた準備」の一つなのだとしたら、せっかちな人ほど返納せず、せっかちでない人ほど返納するのだろうか──。

 筆者は大竹文雄・大阪大学特任教授とともに、この問いの分析に取り組んだ。使用したのは、生命保険文化センターが行った「人生100年時代における生活設計に関する調査」の個票だ。この調査は20年10月から11月にかけて、60歳代から90歳以上を含む高齢者を対象に行われ、2083件のデータを回収している。

 私たちは、ハフマンらの研究に倣い、日本の高齢者のせっかちさと以下の三つの行動特性の関係を検証することにした。

 一つ目は、退職後の生活資金形成である。調査では「あなたは退職後の生活資金形成のための経済的な準備をしていますか(してきましたか)」という質問を設定し、「預貯金」「生命保険」「NISA」「iDeCo」「有価証券」「不動産の売却や賃貸」「その他」「準備していない」という選択肢を提供し、複数回答可とした。

 二つ目は、相続準備である。「あなたは万一があった場合のための相続準備をしていますか」という質問を設定し、「遺言の作成」「生前贈与」「生命保険加入」「その他」「特に何もしていない」という選択肢を提供した。

 最後が、運転免許証の返納である。まず普段の生活で自動車を運転するかどうかを尋ねた。「運転しない」と回答した人に対してその理由を尋ねる質問を設け、「運転免許証を持っていたが、更新せず失効したから」「運転免許証を持っていたが、自主返納したから」という選択肢を提供した。

 結果は、退職後の生活資金形成と相続準備については予想通り、ハフマンらのものと一致した。日本でも、せっかちな高齢者ほど将来に向けた準備をしていないということだ。

 まず、退職後の生活資金形成のために何らかの手段で経済的な準備を行ってきたと回答した高齢者の割合は、せっかちでない選択をする高齢者のグループで87.0%、せっかちな選択をするグループでは72.2%だった。

 相続準備についても同様の傾向が観察された。

 では、運転免許証の返納についてはどうだったか。結果は予想を裏切るものだった。運転免許証を保有した経験のある人に限定して分析したところ、運転免許証を既に「自主返納した」「更新せず失効した」と回答した高齢者の割合は、せっかちでない選択をするグループでは15.0%、せっかちな選択をするグループでは21.8%だった。つまり、将来の価値を割り引かずに評価できる高齢者より、割り引いて評価しがちな高齢者の方が、運転免許証を返納しやすい、という結果になったのである。

 さまざまな属性変数の影響を統計的に制御した上で分析しても、同じ結果が確認できた。

「費用」が「便益」に勝る

 この結果を、どう解釈すればよいのだろう。

 高齢になっても運転免許証を保有し続けることには、便益(ベネフィット)と費用(コスト)の両方がある。便益には、自分で自動車を運転することができるという自由と利便性がある。年齢を重ねると健康が悪化して徒歩での移動は難しくなるため、自動車の運転ができることの価値は上昇していくだろう。一方で、運転の不安は大きくなり、事故を起こして損害を被るリスクも高くなるだろう。これらは運転を続けることによる費用であり、その費用もまた加齢とともに上昇すると考えられる。

 せっかちな高齢者は、運転を続けることの費用が便益を上回ると判断しているのか。この現象は、せっかちさの「符号効果」で説明できるかもしれない。符号効果とは、利得局面のせっかちさが損失局面のせっかちさよりも大きいという特性のことである。つまり、せっかちな高齢者は、運転を続けることの便益は大きく割り引いて評価したが、その費用は相対的に割り引かなかったので、結果として費用が勝り免許証を返納した、という解釈である。

 もしそうなら、せっかちでない高齢者は、運転を続けることの便益と費用の両方を割り引かずに評価した結果として、返納しない選択をしているということになる。

 将来の価値を冷静に判断する高齢者が積極的に返納を検討できるようにするには、身体能力が低下した後も安心して負担なく利用できる自動車運転以外の移動手段を整備していく必要がある。

(佐々木周作・大阪大学特任准教授)


 ■人物略歴

ささき・しゅうさく

 1984年大阪府出身。京都大学卒業後、三菱東京UFJ銀行(現・三菱UFJ銀行)入行。退職後、大阪大学大学院博士課程修了。東北学院大学経済学部准教授などを経て現職。専門は行動経済学、実験経済学。博士(経済学)。


 本欄は、藤井秀道(九州大学大学院准教授)、江夏幾多郎(神戸大学准教授)、佐々木周作(大阪大学特任准教授)、糸久正人(法政大学准教授)、藤原雅俊(一橋大学教授)の5氏が交代で執筆します。

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