国際・政治 日韓関係
日韓が「先延ばし」を望む徴用工問題で岸田政権ができること 澤田克己
徴用工問題で、日本企業の資産現金化の「Xデー」が迫る。「なるべく先延ばしにしたい」というのが日韓両国の本音だ。
いつ爆発するか分からない時限爆弾
日韓関係で最大の懸案となっている「徴用工問題」が重大局面にさしかかる中、岸田文雄首相が9月下旬、国連総会のため訪問した米ニューヨークで、韓国の尹錫悦(ユンソンニョル)大統領と向き合った。
日本政府は「懇談」と発表したが、両首脳は30分にわたり着席で両国の関係について協議したという。事前に議題を調整する正式な「首脳会談」ではないものの、通常であれば「会談」と発表されても不思議はない。首脳会談に応じること自体を韓国側への譲歩と受け取る自民党内保守派を意識したようだが、そもそもが国際会議の場を利用した第三国における会談であり、特別な成果が期待されるような場でもない。岸田政権の対応は神経質過ぎるように思える。
両首脳は「徴用工」や「慰安婦」という言葉を避けつつ、両国間の「懸案」を解決する必要性を確認した。そのために外交当局間の協議を加速させ、首脳間の意思疎通を続けていく考えで一致したという。ちなみに、事前に行われた外相会談では、徴用工問題の解決に向けた協議を続けていくことで合意している。
大きすぎる「現金化」の代償
徴用工問題は、「いつ爆発するか分からない時限爆弾」を抱えている。
韓国最高裁(大法院)は2018年10月、第二次大戦中に日本企業で働かされた元徴用工らへの賠償を被告の企業側に命じる判決を下した。問題は、韓国で差し押さえられた日本企業の資産の現金化、つまり、資産を売却し、原告への賠償に充てる司法手続きがいつ実行に移されるか、である。今夏には「8月19日にも韓国最高裁が売却命令を確定させる可能性がある」とも報じられた。
下級審が出した売却命令を受け、日本企業は最高裁に即時抗告している。ただし、韓国の最高裁は日本などと同じ法律審である。下級審の判決が憲法や法の解釈を誤っている、というような場合を除き、上告はそもそも受け付けられない。韓国の法律では、最高裁は上告から4カ月以内であれば理由を明示せず「上告理由に該当しない」と訴えを棄却できる。今回の売却命令は8月19日が、その「期限」だったというわけだ。
ここで確認しておかなければならないのは、本当に現金化が実行されたらどういうことになるか、という点だ。日本国民(法人を含む)に現実の損害が生じるとなれば、日本政府は対抗措置を取らざるをえない。当然、韓国政府も相応の措置を取ることになり、報復合戦に発展する可能性がある。
そうなれば、どうなるか。韓国の尹徳敏(ユンドクミン)駐日大使は「おそらく韓国と日本の企業が数十兆ウォン、数百兆ウォン(1ウォンは約0.1円)にも及ぶビジネスチャンスを失う可能性がある」という見通しを示す。
日本の経済力は世界3位、韓国も10位前後だ。半導体などの先端産業を含めて両国経済は密接につながっている。報復合戦になれば、どこに被害が及ぶか見当もつかないというところだろう。
だからこそ「現金化」は当初から懸念されていたし、逆に言えば、それさえ避けられれば難局を乗り切れると考えられた。原告勝訴の判決が確定した際、筆者の取材に応じた韓国外務省高官は「日本企業に現実の被害が出ないようにすれば大丈夫だ」と落ち着いた口ぶりで話していた。
だが、当時の文在寅(ムンジェイン)政権は徴用工問題に関心を示さず、事態を放置した。原告側からも「できれば現金化はしたくない」という声が出ていたにもかかわらず、現金化に向けた手続きは粛々と進められてきた。
尹大統領就任後の今年7月、韓国外務省が「期限」を前に、最高裁に「外交努力を尽くしている」と訴える意見書を提出したことで、「最高裁の判断が先延ばしされる」という観測が広がった。期限を過ぎると、今度は「審理を担当する最高裁判事が任期満了を迎える9月初めまでに判断が出るかもしれない」とも報じられたが、特別な動きはなかった。
身動き取れない尹大統領
最高裁が日本企業の即時抗告を棄却し、売却命令を確定させたとしても、すぐに売却が進むわけではない。尹政権の対日政策に詳しいソウル大学の朴喆熙(パクチョルヒ)教授は「売却命令の確定は『競売にかけて売却できる』という意味であり、『売却しなければならない』という意味ではない」との見解を示す。
実際に売却が実行された場合の破壊力の大きさを、原告側を含め関係者はよく分かっている。それだけに「おいそれとは実行できない。政治的な負担が大き過ぎる」(朴教授)。売却命令の確定にこぎつけても、一気呵成(かせい)に進められるほど簡単な話ではないのだ。
在外研究のためソウルに滞在している慶応義塾大学の西野純也教授は「重要なのは、むしろ日本政府の判断だ」と指摘する。日本政府も報復合戦の引き金を引くことは望んでいない。激化する米中対立が国際情勢を構造的に変化させ、ロシアによるウクライナ侵攻が東アジアにも暗い影を落としている。北朝鮮の核・ミサイル開発も進む。厳しさを増す安全保障環境を考えれば、韓国との協力強化は必須である。「現金化」の影に緊張しつつも、破局はなるべく先延ばししたいというのが本音だ。
日韓関係の改善に強い意欲を見せる尹大統領の姿勢は、対日関係を軽視した前大統領とは対照的である。現金化が行われる前になんとか徴用工問題を解決したいと本気で考えているようだ。だが、就任当初から高いとはいえなかった支持率はここに来てさらに低迷しており、国内からの反発を招きかねない思い切った措置を取るのは簡単ではない。慰安婦問題にしろ、徴用工問題にしろ、すべての当事者が満足する措置など現実にありえないのだから、余計に世論を納得させることが重要になる。
徴用工問題を解決するためには韓国側に賠償肩代わりなどの措置を取ってもらうしかないだけに、尹大統領の熱意は貴重である。日本も側面支援を惜しむべきではない。
では、日本には何ができるのか。日本政府が過度に追い込めば、尹政権の国内基盤を弱くする結果を生むだけだ。韓国の世論対策がうまく進むよう、日本も協力的な姿勢を見せる方が得策である。少なくとも首脳レベルを含む対話を活性化させ、日本も関係改善のために努力しているとアピールすることは必要だろう。
(澤田克己・毎日新聞論説委員)
週刊エコノミストオンライン2022年8月18日掲載「徴用工問題の重大局面を前に『引き金を引きたくない』日韓の“本音”」を加筆修正しています