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教養・歴史

クラシック音楽界が「ロシア拒否」で失ったものの大きさ 梅津時比古

2013年に米国ニューヨークで舞台あいさつするゲルギエフ氏(右から3人目)(Bloomberg)
2013年に米国ニューヨークで舞台あいさつするゲルギエフ氏(右から3人目)(Bloomberg)

 ロシア・プログラムの上演中止やロシア人指揮者の解雇により、音楽界から姿を消したロシア音楽。今後いかに「取り戻していくか」が大きな課題だ。>>特集「戦争とロシア芸術」はこちら

日米欧は曲も演奏家も音楽教育も“締め出し”

 2022年2月24日に突如、開始されたロシアによるウクライナへの侵攻は、世界のクラシック音楽界にも大きな打撃を与えた。欧米や日本で、コンサートにおけるロシア・プログラムの変更、ロシアのアーティストの公演中止や追放などさまざまな悪影響が押し寄せてきている。

 それは新型コロナウイルスと同じく、音楽界にとり突然のパンデミックに等しい事態であった。

 日本では3月になってオーケストラから動きが起こった。経営的に厳しいオーケストラ業界は、文化財団や自治体などの助成を受けてさまざまな公演を成り立たせている。まず、オーケストラ側から財団や自治体に、「昨今のロシア情勢を踏まえ、ロシア人演奏家などによる“ロシア・プログラム”に助成金を出さない方針だろうか?」と問い合わせが相次いだ。あるオーケストラ事務局のトップは「財団としても公には決められないだろうが、やはりお金を出してくれるところの気持ちは反映したい」と一種の“そんたく”であることを明かす。

 ウクライナ侵攻が長期化の兆しを見せ始めたころから、現実として公演変更が出始めた。

 6月17、18日にサントリーホールで予定されていた日本フィルハーモニーの第741回東京定期演奏会は、ロシアのアレクサンドル・ラザレフ氏の指揮でラフマニノフのオペラ「アレコ」を上演する珍しいプログラムで話題を集めていたが、オーケストラ側とラザレフ氏で協議して取りやめとなり、秋山和慶氏指揮のドビュッシーなどに変更された。

「ロシアもの」是か否か

 公演を挙行したケースもある。ロシア人のミハイル・プレトニョフ氏はスイスのパスポートで来日し、3月10日にサントリーホールで東京フィルハーモニーを指揮してスメタナの「わが祖国」を上演した。当時の駐日ロシア大使も要人警護(SP)に守られて来場したが、事務局にはやはり上演に対する抗議もあったと聞く。

 また「東京・春・音楽祭」では、ラトビア国立オペラ総監督のバスバリトン、エギルス・シリンス氏が東京文化会館で「歌曲の夕べ」を開いた(4月1日)。母国の作曲家、ダールジンシュの歌曲を入れたほかは、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ムソルグスキーなどロシア歌曲をそろえたプログラム。ラトビアはロシアに隣接し、親ロシア派と親EU派が争い、常に侵攻の恐怖にさらされている国である。

 その後の公演はコロナを理由に中止となったが、1回でも開催された意味は大きい。聴衆は少なかったが、拍手は熱狂的であった。クラシック音楽界に、「ロシアものは是か否か」という問いを突きつける形になった。

ゲルギエフ氏を解雇

 欧米ではロシア人指揮者、あるいはロシア作品のプログラム等が相次いで拒否された。特に春には、欧米でロシア音楽の実演を聴こうとしてもなかなか見つからないほどだった。

 象徴的だったのは、プーチン大統領と親交のあるロシア人指揮者、ワレリー・ゲルギエフ氏。ロシアによるウクライナ侵攻後、ミュンヘン・フィルハーモニーは首席指揮者のゲルギエフ氏に「プーチンに対する『非常に肯定的な評価』の修正」を求め、「3日以内に答えなければ解約する」と詰め寄った。ゲルギエフ氏が応じなかったため3月1日付で「解雇」を発表。この動きは最近も続いており、10月13日にはスウェーデン王立音楽アカデミーがやはりゲルギエフ氏の会員資格を剥奪している。

 一方、モスクワでは、どこまで政府が関与しているかは分からないが、今、至る所にゲルギエフ氏のコンサートのポスターが貼ってあり、ゲルギエフ大盛況の現象が起きているという。

 しかし親プーチン派以外の音楽家には厳しい締め付けがあり、モスクワ音楽院の重鎮で、ショパン国際ピアノコンクールで2位に入賞した反田恭平氏の師でもあったピアニスト、ミヒャエル・ヴォスクレセンスキー氏(87)はモスクワのアパートを売却してナポリでビザを取りトルコ経由でアメリカへ亡命、現在、ニューヨークのジュリアード音楽院でマスタークラスを開きながら、グリーンカードを申請中である。

チャイコフスキー国際コンクールを除名

 ロシアの戦争は、演奏界やアーティストだけでなく、世界の音楽教育にも大きな影響を与えている。4月13日、国際音楽コンクール世界連盟(スイス・ジュネーブ)は臨時総会を開き、モスクワで行われているチャイコフスキー国際コンクールを除名した。理由は「ロシア政府が資金提供し、宣伝に使っているコンクールをメンバーにはできない」というものだ。

 チャイコフスキー・コンクールは、旧ソ連とアメリカが激しく対立していた1958年に創設され、4年おきにモスクワとサンクトペテルブルクで開催される。第1回大会にアメリカのピアニスト、バン・クライバーンが優勝して世界を熱狂させた。第2回はソ連出身のウラジミール・アシュケナージと、英国のジョン・オグドンが同時優勝だった。まさに冷戦からの雪解けの道筋を示したコンクールで、その後、弦楽器でも優秀な演奏家を輩出し、ショパン、エリザベートと並んで“世界の3大コンクール”ともいわれる。19年には藤田真央氏がピアノ部門で2位に入っている。

 世界のトップクラスの若手が自らのキャリア形成に組み込んでいる登竜門としてのコンクールが事実上、世界の音楽界から追放されたことによる損失は、限りなく大きい。

 ロシア音楽、とりわけ歌うような音色、フレーズのつくり方を導くロシア・ピアニズムは、日本や欧米に音楽の豊かな実りを与えてくれた。野島稔(1945~2022年)をはじめ、旧ソ連を含めてロシアに留学した日本人ピアニストは多い。ショパン・コンクールで2位に入賞した反田氏も、モスクワで前記のミヒャエル・ヴォスクレセンスキー氏に師事している。14年にCDデビューした松田華音氏も6歳からモスクワに留学、また19年に日本音楽コンクール2位に入賞した梅崎秀氏もモスクワに留学している。

ロシア留学を断念

 しかしこの留学志向も様変わりしている。戦争が長期化しそうな状況下ではロシアへの留学は諦めざるを得ず、ドイツなどへの志望変更が相次ぐ。コンクールで大活躍し、将来を期待されているある学生は「生命の危険を感じるので、さすがに行けません」と子供の時からの夢であったロシア留学を断念した苦渋を話してくれた。

 国際音楽コンクール世界連盟はチャイコフスキー・コンクールを除名した後に、「国籍を理由に個々のアーティストを差別したり排除したりすることには反対する」と付言している。つまり、ロシアに関するものを拒否するのは、あくまでも、今ウクライナで行われている虐殺などに対する抗議の意思表示であって、ロシアの音楽作品、音楽家などを否定するものではない、ということだ。

 ロシア音楽の海外コンサートの状況も現在は少し落ち着いてきている。ドイツ全国で予定されているロシア音楽のコンサートは、事務局などのホームページを見る限り、来年の2月末まで売り切れている。

 しかし、一時期の過激な対応は収まったとはいえ、やはり総体として、世界の音楽界からロシア音楽が失われつつあるのは間違いない。政治的な表明とは別に、ロシアをどのように音楽界全体の中に取り戻してゆくかは、今後の大きな課題だろう。

 クラシック音楽の中では、ロシアとウクライナは一体である。例えばウクライナのオデーサで育った伝説の巨匠ピアニスト、スビャトスラフ・リヒテルを「ウクライナ出身でありロシアではない」と誰が線引きするだろうか。“指の魔術師”といわれ、ウクライナ出身でアメリカにおいて大活躍したウラディーミル・ホロヴィッツもしかりである。

 ロシアとウクライナの争いを音楽に持ち込むことは、いかに無益であるかということだ。

(梅津時比古・毎日新聞学芸部特別編集委員)

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