週刊エコノミスト Online サンデー毎日
へき地医療を〝学び直し〟見つけた「開放」と「癒やし」 医師・文筆家 香山リカ=ジャーナリスト・森健
セカンドステージ―「自由」を生きる―/2
功成り名遂げながら、新たなステージを歩む人々を追う新シリーズの第2弾。今回は売れっ子文筆家ながら、言論空間に疲れを覚えた精神科医だ。〝学び直し〟を経て立ったへき地医療の現場で、何を手にしつつあるのか。本誌連載陣のジャーナリストが探った。
十一月下旬ともなれば、朝の気温は〇度近くなる。
新千歳空港から東に車で一時間十五分ほど。東西を山林に挟まれた北海道むかわ町穂別地区。精神科医で文筆家の香山リカさんは、四月から同地区にある、むかわ町国保穂別診療所で副所長として勤務している。
ここでの医療は総合診療だと香山さんが言う。
「転んだ、火傷(やけど)だ、何でもです。ここは周囲四十~五十㌔四方に医療機関がありません。だから、住民はどんな病気でも、この診療所にやって来るんです」
穂別地区の住民は約二千三百人。東京のように人は多くないが、穂別の日々は意外と忙しいという。外来の診察に十九床ある病棟の回診。コロナワクチンの接種もあれば、近隣の老人ホームへの往診、未就学児の入学前健診もある。
「要は、役場の保健事業の業務も少なくないんです。介護分野でソーシャルワーカー的な仕事をするときもあるんですよ」
ただ、そう話す表情は楽しげでもある。
穂別で月曜から金曜まで過ごし、週末は東京に戻る二拠点生活を続けている。
東京で精神科の臨床につき、大学で教鞭(きょうべん)を執り、メディアでの言論活動を三十年以上。そんな香山さんがへき地医療に取り組み出したとなれば、耳目を引くのは自然なことだった。なぜへき地医療に取り組み出したのか。香山さんは過去の取材で、以前から医師として社会貢献を考えていたこと、アフガニスタンで人道支援に取り組んでいた中村哲医師が「一隅(いちぐう)を照らす」という言葉を語っていたことなどを動機に挙げていた。
でも、まだ何かあるのではないか――。そんな想像をもって香山さんのもとを訪ねることにした。
香山さんが地方への医療への関心を持ち始めたのは二〇一六年ごろ。複数の友人医師たちによるきっかけがあったという。
一人は徳島の診療所で働く友人から呼ばれて講演に行ったときのこと。訪れてみると、そこは大江健三郎の小説作品に出てきそうな山奥の集落だった。
同じ頃、北海道の道東地区に講演に行った。すると空港で声をかけられた。立っていたのは、公衆衛生の基礎研究で一線にいた友人だった。だが、今の彼は道東の診療所で働いていた。
「徳島の彼は歌舞伎町で飲んでるような学生で、道東の彼は湘南ボーイ。そんな彼らがへき地医療で生き生きしていた。素直にうらやましいと思いました。医師免許があればできるんだという、当たり前の事実を見せてもらった気分でした」
一七年、勤務していた立教大の研究休暇を利用しながら、母校の東京医大に通い、総合診療を学び直すことにした。週二~三回外来に向き合う日々。そのうち精神科で培った知見が役立つことも見えてきた。
「大学病院の外来という事情もありますが、原因不明の不調などで受診する人がかなりいたんです。よそでこういう病気と聞いていたけれど治らないと。診断すると、メンタルに原因があったケースもある。身体を治すのに精神病理が役立つこともあると思いました」
そんな実感を得る中、へき地医療の求人情報に触れていった。長崎・五島列島など心惹(ひ)かれる場所も少なくなかったという。
「言葉」届かなくなった過去十年
だが、そうした地域医療に心惹かれる根幹には何があったのか。
香山さんは、たぶん言葉の限界を感じてきていることも大きいかなと語った。
「精神病理学を基盤に一九八〇年代からものを書いてきました。新自由主義が広がり、時代が変化していく中で自分ができること――それは気休めかもしれないけれど、生きる苦しさを和らげられればと思ってね。でも、この十年くらいで、そうした言葉が届かなくなってる気がしてきていて……。なら、より必要としてくれる人のために働くほうがいいんじゃないか。そう考えた選択がへき地医療という方向だったのかなと」
振り返ると、香山さんの言論活動は社会に対する分析や闘いであり、救いを与えるものでもあった。
六〇年、札幌に生まれ、小樽で育った。平等や平和など理想的な民主主義が機能していた頃の子ども時代だったと振り返る。
父は産婦人科医院を営んでいたが、非常にシニカルな人物だったという。
「私が小一の頃、父と道を歩いていたら、通りすがりの人に『こんにちは』と頭を下げられた。すると、父は私にこう言ったんです。『あの人は私ではなく、私の小金に頭を下げたんだ』。この言葉は衝撃で、現実の厳しさを突きつけられたような思いでした」
幼い頃から本や漫画でも貧困や差別のようなものが心に残る子どもだった。その後、成長とともにSFや思想など感性の鋭い文化に触れ、東京医大に入学した。その学生生活の間、深く入り込んだのが七〇年代末から台頭していたサブカルチャーだった。
医学生時代、よく顔を出していた雑誌がある。思想や文化を扱うサブカルチャー誌『HEAVEN』。香山さんがメディアにものを書き始めたのは、この雑誌が最初だった。そして編集長につけられた筆名が、リカちゃん人形で知られる「香山リカ」だった。
以降、香山さんは多様な雑誌に寄稿していった。
八〇年代から九〇年代は精神科医ジャック・ラカンや思想家ジャン・ボードリヤールといった知の解釈を織り交ぜながら、事件や現象を読み解く論考を記述。それらの本は今、開いてもみずみずしい知の探求が行間から伝わる。この新しい書き手をメディアは放っておかなかった。
若き日の著作について香山さんは「ニューアカデミズムの流れですね」と照れながら言う。
「当時、セゾンなどの鋭いハイカルチャーもあり、学際的、領域融合的な知や教養がおもしろかったんです。そうしたものと自分の専攻してきた精神病理学が合っていたのだと思います」
だが、時代は変化する。二〇〇〇年代以降、香山さんの叙述は次第に現実の社会事象をテーマにしたものに変わっていった。大きな転機は〇二年だった。
サッカー日韓ワールドカップがあった〇二年、顔に日の丸ペインティングをする若者が増えた。そんな無邪気な愛国心について書いた本『ぷちナショナリズム症候群』が話題を呼んだ。左にとっては共感、右にとっては反発。この本を境に次第に香山さんは右の人たちから攻撃されるようになっていった。
「それより少し前、九〇年代の終わりから、歴史教科書問題などで右の人たちが増えていました。当時はバカげた活動くらいに思っていたのだけど、いつしか日本の無謬(むびゅう)性を主張するような人が増えていた。私への攻撃が始まったのもこの本からで、所属する大学に手紙や電話で苦情が寄せられるようになりました」
はびこる「排外主義」に疲れ覚え
こうした社会の変化は、香山さんの書くテーマの変化にもつながっていた。
二〇〇〇年代以降、格差や貧困をはじめ、うつ、右傾化といった社会課題が出ていた。九〇年代は思想や文化の言及が多かったが、いつしか目の前の課題について言論を展開するようになっていた。刊行点数も年十数冊出すほど急増した。『〈いい子〉じゃなきゃいけないの?』『テレビの罠』『親子という病』……。膨大な著作だが、姿勢は一貫している。読者の状況を思いやり、手を差し伸べるような筆致だ。それは救いという言葉にも見える。
香山さんは、救うなんてとても言えないとためらいつつ、言葉を継ぐ。
「小泉政権以降、格差社会になった。精神科で患者さんを診察していると、つらい環境で病気になった人に会うわけです。すると、その人たちに何かしてあげたいと思っちゃう。政治や社会を変えるなんて私にはできない。でも、つらい人たちに、生きていると、きっといいことあるよくらい言ってあげたい。そういう思いで書いていたんです」
だが、そうした香山さんの思いと裏腹に社会は進んだ。経済的な価値観が支配的になり、心を豊かにするような文化はますます軽視される方向へ。また、排外主義的な言葉がはびこるようにもなった。
「ネトウヨと呼ばれる人たちが信じられないような排外的な言葉を言い始めた。どうしたらこんな人たちが生まれてくるんだろうと驚くような時代になってしまった。象徴的なのが安倍政権でした。総理が年末年始に読む本として挙げていた中に『日本国紀』が入っていた。本当に驚きました」
そんな変化が訪れる中、香山さんは右派から敵視される存在となっていった。所属大学のみならず、講演会会場にも苦情が行く。
そうした嫌がらせの先にあったのがあいちトリエンナーレ「表現の不自由展」をめぐる事件だ。二〇年九月、香山さんはジャーナリストの津田大介氏や映画評論家の町山智浩氏とともに刑事告発された。告発したのは美容外科医の高須克弥氏。香山さんがリコール運動について一部事実誤認したネットの投稿に対し、地方自治法違反の疑いがあると問題視した。香山さんは投稿をすぐ訂正したが、高須氏は許さなかった。
告発は起訴には至らなかった。だが、こうした妨害行為に疲弊していったのも確かだった。
「不起訴でしたが、手続き上、書類送検という形で前歴がつく。そうなると、何のため、誰のためにこういう活動してるんだろうという気にもなりましたね」
時折しも新型コロナウイルスの広がりで、社会には「不要だ」と仕事を失った人も増えていた。そうした変化を見ながら、香山さん自身も自身のあり方を問うような心境になっていた。
そんな荒(すさ)んだ心境のなかで巡り合ったのが、穂別の診療所の募集だった。
穂別地区での暮らしは決して楽ではないと香山さんは言う。冬は氷や雪で覆われ、都市のようにモノが多いわけでもない。それでも地域の人たちは淡々と楽しく暮らしている。
「必要としてくれる」感じる喜び
穂別に来てそんな町の人たちの姿に、自分が開放されているのを感じるという。
「野菜や花をつくり、近所で助け合う。そういう姿を見ながら、私が地域の人から癒やされているんです」
ここでの暮らしは医師としての自分の立ち位置を再認識させてくれるという。
「メディアでものを書くとき、誰が読むのか考えてきました。でも、穂別ではそんなこと考えなくていい。目の前に治療を求める患者さんがいて、医師の自分を必要としている。そのシンプルな関係が自分にとってもいいなと思えるんです」
実は東京での診療も全てやめたわけではなく、毎週土曜の診療は続けている。新聞などメディアの連載や執筆も一部は続けている。へき地医療に全てを投じているわけではなく、三分の二ほど身を置いているというのが現状だ。穂別側もそうした体制のほうが「燃え尽きず」香山さんもやりやすいだろうと理解しているという。
そしてそんなあり方は今の香山さんにとって最適なバランスのようである。
「穂別で夜スタバのラテが飲みたいと思っても買えません。でも、ここでは野菜の貯蔵や薪(まき)ストーブなど、生きる上でのシンプルで大事なことがある。そういう基本的な暮らしに触れると人生の大事なものに気づく。それを今、私も体感しているのだと思います」
雪の季節がやって来る。穂別での暮らしが温かくなることを、地域も、そして医師も望んでいるだろう。
もり・けん
ジャーナリスト。専修大非常勤講師。2012年、『「つなみ」の子どもたち 作文に書かれなかった物語』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。17年には『小倉昌男 祈りと経営』で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞を受賞