週刊エコノミスト Online サンデー毎日
戦地送り出す「軍国の母」 求められた「日本婦人」像 1943(昭和18)年・学徒出陣壮行会
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/42
1943(昭和18)年10月、大学生らの徴兵猶予が理科系などを除いて廃止された。詰め襟服の群れが冷雨に濡れて明治神宮外苑競技場を行進する場面に象徴される「学徒出陣」である。ペンを捨て銃を握る彼らの背中を押したのは、あまたの〝母〟たちでもあった。
〈法文系学徒適齢者が挙(こぞ)って出陣する。この出陣は前古未曽有の盛事である〉と巻頭にうたうのは本誌『サンデー毎日』1943年11月7日号だ(当時、題字は「週刊毎日」に変更中)。同年10月、大学など高等教育機関の在学者に対する徴兵猶予が廃止され、理工系、医学系などを除く男子学生の入隊が12月に始まった。本誌の檄(げき)はこう続く。〈単なる数字から言えば大したことはないが、(中略)この出陣に大きな意味を感ずるのは、これら学徒は直接関係ある親兄弟親戚知友を率い、かつ与える効果である〉
学徒戦時動員体制確立要綱が決定された同年6月は戦死した山本五十六(いそろく)・連合艦隊司令長官の国葬が大々的に営まれ、戦局悪化のごまかしに逆用された時期でもある。一握りの「エリート」に許された特典を剥ぎ取り、改めて戦意高揚に結びつけたい国家の意図をわきまえた筆遣いといえる。
本誌同号は10月21日、明治神宮外苑競技場(今の国立競技場)で行われた「出陣学徒壮行会」の模様を伝える。学徒代表として東大の江橋(えばし)慎四郎さんが「生等(せいら)もとより生還を期せず」と有名な答辞を述べた後、式場は「海ゆかば」の斉唱に包まれた。大本営発表のラジオ放送でも流され〝準国歌〟と扱われていた曲だ。伴奏は東京音楽学校(今の東京藝術大音楽学部)の出陣学徒。式典の演奏は陸軍戸山学校軍楽隊が担っていたが、〈これを限りに楽器を銃に持ちかえて戦の場へ征く学徒たちにもと殊更胆に銘ずる〝海ゆかば〟の吹奏を許された〉という。
その旋律を万感の思いでなぞったのは学徒に限らない。早稲田大2年の一人息子を見送りに参列した母親がつづった一文がこう紹介されている。〈いま聞えてくる〝海ゆかば〟の曲をお母さんもあなたと同じ気持で歌うことができました。そして日本の母として心から幸福に思っております〉
30年後に描いた元学徒の〝葛藤〟
当時の本誌を見ると、若者を戦争に駆り出すために徹底して「母」の役目が説かれている。11月28日号では歌人の阿部静枝が「学徒兵と母」と題したコラムで〈兵として送る上は、自分の子と思わぬという言葉が通っているが、これはすでに昨日のものではなかろうか。今日の母の心情は、征かしめてむしろわが子たるの意識がはっきりとし、自分も一日本婦人たる安定感を強くする〉と書いた。また学徒動員の他にも少年飛行兵への志願を促す「戦う〝日本の母〟を語る」(8月8日号)や「〝雛鷲(ひなわし)と母〟の座談会」(11月7日号)といった記事が目白押しだ。
一方で軍歌にかき消されがちな肉親の情をにじませた筆致もある。12月26日号は、慶應大3年の長男を筆頭に兄弟4人を学徒出陣に送り出した母親を取材。はなむけにと人形を四つ、手作りして贈った挿話を紹介し、〈母もついて行きたい、その一つ一つの人形の着物は(母の)半衿(はんえり)でつくられていた〉と記している。
学徒出陣から30年、本誌73年10月28日号は神宮競技場の壮行会に出た元学徒たちの〝今〟を追った。その中には答辞を読んだ江橋さん(当時、東大教授)もいたが、取材は拒否。〈でられた義理ではないからですよ。僕だけまちがって生きている、そう思っています〉と本誌に告げた江橋さんがメディアに重い口を開くようになったのは晩年だ。
そして記事には、先述した43年11月7日号で母親から門出を祝われた元早大生本人も登場する。44年5月に病気で入院、前線に出ないまま終戦を迎えた。〈あの記事からすると、ぼくは当然壮烈な戦死を遂げて、母は、軍国の母から靖国の母にならねばならんとこでしょうが……〉と一見淡々とした口調で語っている。
(ライター・堀和世)
※記事の引用は現代仮名遣い、新字体で表記。必要に応じて内容を一部改変
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など