週刊エコノミスト Online サンデー毎日
戦前の「百寿者」のリアル 食と心の「養生」変わらず 1938(昭和13)年・「百歳は長寿か」
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/41
100歳以上の高齢者が今年、全国で9万人を超えた(9月1日現在)。1万人に達したのが1998年だから急激な増加だ。一方で健康寿命を保つのが難しい「80歳の壁」問題も表れてきた。百寿者が一握りしかいなかった80年前の記事から「長寿の秘密」を探る。
〈百歳位でなにが長寿だ!〉と6段抜きの活字(当時の誌面はタブロイド判)を躍らせるのは、本誌こと『サンデー毎日』1938(昭和13)年1月23日号だ。
40年の国勢調査によると100歳以上の人口が200人に満たない頃だけにいかにも大風呂敷だが、逆に年齢を気にしないほど頑丈でないと「100歳の壁」を超えられない時代ではあったろう。記事は当代の健康寿命エリートといえる高齢者3人を取材している。
一人は、京都の「都をどり」で知られる京舞井上流の家元、片山春子さん(三代目井上八千代)だ。〈頬はふっくらして、顔には艶が残っているので、どうみても七十代としかみえない(中略)言葉も甲高く威厳をもち、これが百一歳のお婆さんの声だと聞いたら大抵の人が「えーッ……」と眼(め)を丸くするに違いない〉と記事は書く。6歳で始めた踊りで鍛えた体は病気を寄せつけず、〈九十二歳には肺炎にかかったが一週間くらいで全快した〉という。
鰻(うなぎ)のかば焼きが大好物だが、決して飽食はしなかった。〈朝が牛乳五勺(しゃく)にジャムパンを一切れ、昼はご飯を軽く茶碗に二はい、お三時(やつ)には牛乳五勺にカステラその他の甘い菓子類を少々、晩は晩酌を猪口に三、四はい、それも身体がよく温るよう卵酒にする、ビールでもときにはコップ一ぱいは飲む〉。鰯(いわし)の塩焼きや味噌(みそ)も欠かさず、良質のたんぱく質や油脂、発酵食品に富む食卓だったようだ。
同じく食養生に努め、数え100歳の新春を迎えたのが東京高等女学校(現東京女子学園)の校長、棚橋絢子さんだ。本誌同号に自ら一文を寄せ、〈腹一杯に食べるということがなく、十三の年から産後を除いて、ご飯はいつも三杯ときめていたことです。これは大変衛生にかなって、そのため胃腸が丈夫で、歯も一本欠けたきりで入れ歯もしないほどです〉と述べている。
本誌も担がれた「111歳」での達観
ただし必要に迫られた末の節食でもあった。婚家が没落し〈随分貧乏もして、極端な時は二日間さつま芋と大根を食べていた〉という。毎日2、3時間しか寝ずに働き詰めの頃もあったが、棚橋さんは振り返ってこう書く。〈働くだけ働いたら決して力の及ばない所まで、いたづらに心配するということをしませんでした。これは、人間にとって一番毒なのは、心を痛めることであるということを、知っていたためでした。(中略)心がおだやかなれば身もまたおだやかで長生きが出来るのであります〉
ところでもう一人は文政11(1828)年生まれ、数え111歳という名古屋市の伊藤東一郎さんだ。記事に〈富士登山の折と変らず七十歳台の老人としか見えない〉とある通り、前年に富士山登頂に成功したスーパー高齢者だが、じきに正体が知れる。42年刊行の『百歳突破作戦』(高田義一郎著)に〈昭和十五年二月、百十三歳日本一翁と得意の絶頂にあつた彼は、忽ち失意の淵に投げ込まれてしまつた〉とある。戸籍に誤って母の生年月日が記されたのを利用し、百寿を装っていたと発覚したのだ。
本誌もまんまと担がれたのだが、実の生まれは嘉永6(1853)年だから、取材当時、十分に「80歳の壁」は超えていた。すると〈物事にクヨクヨせんことじゃな。なんでも気前よう諦めるが肝腎で―そう、そう、足るを知る、それじゃ、その気持じゃな〉と伊藤翁がつぶやく健康長寿のコツをそのまま捨てるのは惜しい。長い人生で何が愉快だったかと聞かれ〈長生きしたとてなんの非凡な面白いことがあるもんか、人の世はな、矢張りわしは金と女が一番悪い奴(やつ)で、一番面白いと思うとる〉と返す口調にもどこか味がある。
(ライター・堀和世)
※本誌記事の引用は現代仮名遣い、新字体で表記
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など