週刊エコノミスト Online サンデー毎日
5週連続「ルポ」が描いた「普通の女の子」の“闘争” 1978(昭和53)年・キャンディーズ解散
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/40
芸能史上、最も有名な言葉の一つだろう。1977(昭和52)年7月、「普通の女の子に戻りたい」という叫びと共にキャンディーズが解散宣言した。本誌は翌年4月の最終公演に向けて「同時進行ルポ」を連載。伝説のアイドルを支えた当時の若者文化を解剖した。
「ニュー・ヤング」―死語には違いない。本誌『サンデー毎日』78年3月26日号によると〈中学高学年から高校、大学生といった世代である。つまりは、三十五年以降生まれを中心〉と定義される。今では「アラ還」と呼ばれる世代を指して、記事はこう書いた。〈カラーテレビの家庭定着の時代に生まれ、信じられぬ情報量の中で育ってきた。そうしたニュー・ヤングと、ヤングそのものである彼女らとはどこで触れあい、何に共鳴しているのだろうか〉
スマホネーティブのZ世代を語る口調と似ているのが面白い。ともあれ、その「彼女ら」とは同年4月4日、後楽園球場(一応言っておくと今の東京ドーム)のサヨナラ公演に5万5000人を動員したアイドルグループ、キャンディーズだ。本誌は「4・4」へと完全燃焼する3人を追うルポを5週連続で掲載した。
渡辺プロダクションが営む東京音楽学院で「スクールメイツ」の一員だった伊藤蘭、藤村美樹、田中好子が72年、NHK「歌謡グランドショー」のマスコットガールに選ばれて「キャンディーズ」と命名された。翌年「あなたに夢中」でデビュー。75年の「年下の男の子」で人気が爆発した。
だが、その〝人気〟の正体はあいまいだ。同音楽学院で彼女らを教えた一人は〈ピカッと光ったところは何もなく(中略)しかも悪声。歌も、どちらかというと大変ヘタな部類でした〉(3月26日号)と首をひねるのだ。そんな中、元マネジャーの大里洋吉氏(現アミューズ会長)の視点は刺激的だ。〈ピンク・レディーを見てごらんなさい。あれなどは歌じゃない。動きとリズムだけです。それが、ヤングに受ける。キャンディーズの場合はそうした動きとリズムだけの歌の一歩前の存在でしたが、(中略)彼らがヤング文化の大変な変わり目を創っているといってもいい〉(同号)
その「変わり目」を大人たちに見せつけたのが、77年7月17日、日比谷野外音楽堂ステージ上での解散宣言だろう。もともと3年で引退すると決めており、ファンへの恩返しとして1年延期していた。同年8月7日号で芸能評論家の加東康一氏は、3人が契約に沿って引退の意思を伝えたが、事務所側と話がつかず〝実力行使〟に出たという事情を明かした。当時の芸能界の常識に照らせば造反に他ならない。〈「まったく寝耳に水です。善後策はこれから……」と頭をかかえるスタッフの本音は、タレントはオレたちのいいなりになるはずだった……という思いだったのであろう〉と、加東氏はいかにも痛快だという筆致でつづっている。
「ザマー見ろ」込められた〝喝采〟
解散宣言で出た「普通の女の子に戻りたい」の一言も騒ぎを呼んだ。78年4月2日号で「ラン」こと伊藤は〈人間は一人なんです。だから、ここらで自分の力で歩きたいと思ったんで、個人的発展のために解散することを決めたんです。それなのに、妙に言葉だけが浮いた感じになってしまって……〉と打ち明けている。
3人の決断をニュー・ヤングはどう受け止めたか。ファンクラブ「全キャン連」の中心的人物である大学生は言う。〈他のタレントとは何かが違うんだ、って確信してました。そこにあの宣言でしょ。世間に対し、ザマー見ろ、やっぱり違ってただろう、といってやりたかった〉(4月9日号)
彼らはキャンディーズを「共に青春を歩んだ仲間」と表現した。無論一つの単語に集約されるはずのない思いを、ファンは3色の紙テープに託し、ステージに投げるのを習わしとした。「4・4」で宙を舞った紙テープは〈どう少なく見ても40万本以上〉と本誌4月23日号は伝えている。
(ライター・堀和世)
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など