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三笠宮が光った時代 皇族にも青春はある 社会学的皇室ウォッチング!/55=成城大教授・森暢平

学習院大史料館で公開された澄宮(のちの三笠宮)の日記(三笠宮家所蔵)
学習院大史料館で公開された澄宮(のちの三笠宮)の日記(三笠宮家所蔵)

 学習院大史料館で開催中の特別展「ある皇族の100年―三笠宮崇仁(たかひと)親王とその時代―」を見た。印象的だったのは、小学生から青春時代までが綴(つづ)られた自筆の日記である。少年から青年に成長する三笠宮(当時は澄宮(すみのみや))の日々の息づかいが伝わってくる。

 昭和天皇の末弟である三笠宮は1915(大正4)年生まれ。6年前に100歳で亡くなった。その伝記である『三笠宮崇仁親王』(吉川弘文館)が12月中旬に発刊されるにあたり、編纂(へんさん)に使われた史料などが展示された。

 1931(昭和6)年2月22日、学習院中等科3年生であった澄宮(当時15歳、以下、「三笠宮」でなく幼年時の称号「澄宮」を使用する)は、習志野原(現在の船橋市薬円台)にあった陸軍騎兵学校に馬術の練習に出向く。

「覆馬場(おおいばば)デ先(ま)ツ『紅花』ヘ乗リ、城戸少佐指導デ馬術ヲ行ヒ、次ニ他ノ馬デ低イ障害飛越ヲシタ。(略)西中尉ノ『ウラヌス』ノ飛越ブリヲ見学ス。同馬ハ体高五尺八寸デ中々困難ナ馬トイフコトデアル」

 城戸少佐は城戸俊三、西中尉は西竹一のことである。当時、陸軍騎兵学校は馬術競技が盛んで、この2人を含め同校の7人が、翌32年夏のロサンゼルス五輪に出場した。とくに、西中尉は馬術大障害飛越競技で金メダルを獲得する。ウラヌスはこの時の優勝馬だ。澄宮はこの日の感想を以下のように書いた。「本日ハ平常ト異ツタ馬ニ乗リ、学校教官ニ遠慮ナク欠点ヲ直シテモラツタ為、自分ノ欠点ガ分リ、将来ノ為、大ニ利益ガ大デアツタ。唯(ただ)、泥寧(でいねい)デ野外騎乗ガ出来ナカツタノハ残念デアツタ」

「ぬかるんでいて野外練習ができなかったのは残念」と悔しがるのは、馬術の上達を目指す15歳の少年らしい感想だ。当時、皇族身位令によって、男子皇族は特別な理由がある場合を除き、陸軍か海軍の武官に任官しなければならなかった。澄宮は学習院時代から、陸軍で騎兵の訓練に励んでいたことが分かる。そして翌年、中等科4年を終えた段階で、学習院はやめ、陸軍士官学校に入った。

 一方、学習院では成績が優秀で、修了時に優等生としての賛詞と華族会館から頌牌(こうはい)を受けた。本当は東京帝国大に進んで学問の道を究めたかったのではないかと言われている。

 31年2月23日、学習院を修了する2人の皇族の奉祝式があった。「午後一時カラ今度卒業サレル両殿下(〔久邇(くにの)宮(みや)〕邦英王、〔朝香宮〕正彦王)ノ奉祝式ガアリ、ツヾイテ余興ニウツリ、三語楼ノ落語『愚者』、伯鶴(はっかく)ノ『智恵比ベ』、小仙ノ大(だい)神楽(かぐら)デ満場ヲ笑ハセテ、三時過閉会シタ(初等科モ一緒)」。落語家柳家三語楼、講談師大島伯鶴、曲芸師鏡味(かがみ)小仙が学習院の児童生徒を前に芸を見せ、満場大ウケであった様子が分かる。澄宮も大いに笑ったことだろう。

 この日は青山御所(赤坂御用地内)に帰殿後、小高い丘の斜面でスキーをする。「裏デ、スキーヲシタ。雪質ハヨイガ少量デ残念デアツタ。大宮御所カラ西川侍医ガスキーヲシニ来タ。割合ニ上手ノヤウデアル。本日ヨリ曽根、転地ニ行ク(皮膚病ノ為(ため))」

 スキーで遊んでいる澄宮のもとへ、貞明(ていめい)皇后の侍医であった西川義方(よしかた)がやってきた。幼少の頃から澄宮の成長を見守った50歳の侍医に、「割合ニ上手」と書くのは、若干のからかいも含む愛情ゆえだろうか。「曽根」というのは女性職員(出仕)である。皮膚病のため療養に行くことをわざわざ記し、職員への気遣いが感じられる。

 5歳の詩がレコードに

 澄宮は幼少の時から、アイドル的な注目を集めてきた。1921(大正10)年、まだ5歳で小学校に上がる前、澄宮は折々に詩のようなものを書いて周囲を驚かせた。今回の特別展でも「サトウ」(砂糖)と題した詩が幼い自筆で書かれた短冊として展示されている。

「サトウハアマク ヲイシクテ ギウニユウナンカニ イレテノム」(砂糖は甘く美味(おい)しくて牛乳なんかに入れて飲む)。幼少の澄宮は七五調のリズムが面白く、何でもポエムにした。側近たちはその語彙力に目を丸くする。「マチノヒ」(街の灯)という作品もある。21年10月ごろ、青山御所に帰る際、赤坂見附付近の家々に電灯がともり始めた夕方の風景を見てつくったものだ。「ミヤクンガ ゴシヨカライソギ カヘルトキ マチニデントウ ツキニケルカナ」(宮君が御所より急ぎ帰る時、街に電灯つきにけるかな)。「宮君」とは澄宮の自称である。作品は多数あったと思われる。

 大阪毎日新聞社・東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)は就学前の澄宮を活動写真(映画)として撮影し、自社で公開することを計画。宮内省も了承し、撮影は21年8月に行われた。少年皇族のかわいい姿は全国で上映され、大きな評判となった。

 撮影の時、御養育掛(がかり)の田内(たのうち)三吉は、大阪毎日新聞社・東京日日新聞社記者である小野賢一郎に、澄宮が非凡な詩を多数つくっている話をした。この時および11月に計10編の詩が小野に渡された。小野は、童謡作曲家で知られる本居長世、音楽教育家(大阪音楽学校長)の永井幸次にこれらの詩に曲をつけることを依頼。少年皇族のポエムは童謡となった。

 21年12月2日の6歳の誕生日、本居の長女みどり、次女貴美子が、澄宮の前で、作曲された童謡を披露。これがレコードとして発売されたほか、22年1月には大阪毎日新聞社・東京日日新聞社が『澄宮殿下御作童謡集』を発行した。三笠宮はこのあと、「童謡の宮様」として知られるようになる。側近たちが作詞の才能に驚き、これに目をつけたメディアが商品化して世に広めたための現象であった。

 「大人も及ばぬ天才」

 これ以降、澄宮の記事では「大人も及ばぬ天才」などとその秀才ぶりが注目され、人びとは成長を見守った。特別展では初等科6年生の時の自由研究「関ヶ原役」(1927年)が展示されているが、たしかに6年生とは思えない183㌻の大作である。

 皇族にも幸せな少年少女時代、そして青春がある。それは、一般の人と何ら変わることはない。特別展を見てそんな感慨を覚えた。

 ※学習院大史料館は東京都豊島区目白の学習院大学構内にある。特別展は予約不要で入場無料。12月3日まで。

もり・ようへい

 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など

「サンデー毎日12月11日号」表紙
「サンデー毎日12月11日号」表紙

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