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政界の〝サラブレッド〟がたどり着いた「食と農」 元衆院議員・佐藤謙一郎=ジャーナリスト・森健

佐藤謙一郎さん
佐藤謙一郎さん

新シリーズ・セカンドステージ―「自由」を生きる―

「長寿の国」と言われて久しい日本。「生き直し」を選ぶ人も少なくない。功成り名遂げた人々も同様だ。そして、自らの功名を脇に置くことで自由を手にする人もいる。そんな「第二の人生」を生きる人々を、本誌連載陣のジャーナリストが活写する新シリーズだ。

 赤レンガ倉庫にほど近い横浜・馬車道の一角。昼の居酒屋の軒先で、無農薬野菜が売られている。

 その横で腰掛け、雑誌を読んでいたのが佐藤謙一郎さんだった。白いシャツにスリムのブラックジーンズ。今年で七十五歳だが、若者のような格好だ。こちらに目を留めると、立ち上がって野菜を指差す。

「今日は長野だけじゃなく、地元横浜の野菜もある。常連で買いに来てくれる人も多いんですよ」

 まもなく店先に中高年の男女らがやってくると、佐藤さんと世間話を始めた。彼らは佐藤さんを「先生」扱いせず、佐藤さんにも気負いはない。

 佐藤さんは元国会議員だ。参院で一期、衆院で五期。前身の神奈川県議時代も含めれば二十二年以上政治家として活動してきた。

 だが、六十歳で政界を引退、昨今の活動は食と農、自然を基盤にしている。無農薬野菜の販売手伝いもあれば、子ども食堂のように横浜市内の三部制高校の生徒に無償で食事を提供する活動、あるいは動物愛護の保護猫活動もある。そんな方針は政界引退直後からだった。政界をやめて間もない頃は自然食宅配の配送員をしていた。

 十年ほど前、ある取材で連絡したところ、佐藤さんから「いま野菜の配達してるんですよ」という声が返ってきた。驚いて会いに行くと、佐藤さんは楽しそうに日々を語った。

「軽トラに乗って長野の野菜を配達してるんです。日当はあるけど、ボランティアのようなもの。お金のためにやっているんじゃないから。まず食が大事、その食を支える環境が大事ってことでやっているんですよ」

 話しぶりに国会議員特有の強い自意識は感じられなかった。それとは真逆の、自由を楽しみ、尊重する姿勢が印象に残った。

 ただ、その時の取材では聞きそびれたことがあった。なぜ政治家をやめ、農のほうに活動を移したのか。そこで改めて話をしてもらおうと訪れていた。

 佐藤さんが政治活動をやめたのは二〇〇七年十月。〇五年夏の解散総選挙で落選し、浪人中の身だったが、やめた理由は落選より年齢にあったという。

「もともと『議員六十歳定年制』を訴えていて、この年、自分も六十歳でした。ならば身を引かねばと」

 その上で、これは言いにくいことだけどとしつつ、その二年後、政権交代が起きた際、やめていてよかったと感じたという。

 当時の鳩山由紀夫首相は新党さきがけ、民主党時代からの盟友。佐藤さんはその鳩山氏から「もし政権をとったら、環境大臣をよろしく」と言われていた。だが、佐藤さんは自分は大臣になるつもりはなかったと打ち明ける。

「応援してくれていた後援会には申し訳ない思いもある。けれど、僕は自分が政府の一員にはなりたくなかった。それは長年政治家をやってきた僕のスタンスに関わる問題だったんです」

 そして、こちらの目を見てから、古いジャーナリストの名を挙げた。

「よくかわいがってくれた本田靖春さんが、私に言っていたのが政治部記者の政治的責任。政治部記者は政治家に籠絡(ろうらく)されていてはいけないと。つまり、社会部のような意識を持っていないといけないと。僕は議員になってもその言葉を持ち、社会部的な意識で政治に関わろうと思っていた。だから、議員であっても政府側に立つことには抵抗があったんです」

 さらに遡(さかのぼ)って言えばと、ためらいがちに話を継ぐ。

「そんな感覚は僕の父、僕の家との関係で培われたものでもあったと思います」 佐藤さんの父は大蔵省の事務次官を経て参院議員、経済企画庁長官も務めた。いわば名門の出というのが佐藤さんの環境だった。

右から左に移った珍しい政治家と言われるという
右から左に移った珍しい政治家と言われるという

三島由紀夫と新左翼の「狭間」で

 佐藤さんが生まれたのは一九四七年三月。六六年に東京大経済学部に入学した。当時、左翼系の学生運動が隆盛だったが、佐藤さんは「どちらかと言えば右」の立ち位置にいた。政治思想というより、日本文化防衛が基盤だった。

「当時、三島由紀夫さんに懇意にしてもらい、国立劇場学生観劇会という団体を作りました。楯の会のユニホームの生地を見に行ったりもした。ただ僕は軍国主義は嫌いなので、楯の会には入らなかった。僕は歌舞伎や東映の勧善懲悪の映画が好きでね。このあたりの思想って、基本的には古い日本で封建的。そういう意味で右だったんです」

 同時に、佐藤さんは学内外で活動を展開。学外では東京工業大の菅直人氏、学内では町村信孝氏と知己を得て、新左翼とは異なる連帯的な活動をしていた。

「フォークのソルティー・シュガーと仲良くしたり、評論家の福田恆存氏に親しくしてもらったり、どんな方向にも交流が広がっていた。本当に楽しかった」

 一方、ほとんど交流がなかったのが父だった。

 父・一郎は六五年に事務次官に就任。大蔵省のつくる予算が国家をつくる時代、昼夜なく働いていた。六七年に退官するとすぐ参院選に担ぎ出され、七〇年には早くも経済企画庁長官として入閣した。佐藤さんが家で父に会うことはほとんどなかったという。

「夜中二時ごろに帰ってきて午前に出ていく。父に家庭のようなものは一切なかった。一方、自宅にまで陳情に来る企業幹部は多数いた。働くとは、家族とは何だろうと思っていました」

 母方の祖父は第二次近衛文麿内閣で厚生相を務めた金光庸夫(つねお)。三人娘の長女の夫が検事総長、次女の夫で佐藤さんの父が大蔵事務次官、三女の夫が通産事務次官という家。だが、そんな家柄に佐藤さんは違和感と反発心を持っていた。

「名門、上流階級というのでしょう。でも、東映の時代劇を見てきた自分からすれば、庶民の気持ちをわからないお代官様は敵なんです。実際、父は全く家庭を顧みなかった。それにも疑問を持っていました」

 大学卒業後、佐藤さんは社会部記者を志し、NHKに入局。だが、一年半で退社、フリーライターに。七四年には日本初の調査報道と言われる『文藝春秋』の立花隆の「田中角栄研究」などに取材協力で関わったという。

「僕はカネまみれの田中政治を糾弾したかった。立花さんは、取材班が集めたデータを壁に貼り付けて分析していく。これは本当に面白かった。だから、かわいがってもらったのもあって、彼がやっていた新宿ゴールデン街の『ガルガンチュア立花』というバーも『君、やらないか』と言われていた。やっていたら、もっと面白い人生になったかもしれないですね」

 だが、間もなくして進んだのは政治の道だった。それは期せずして踏み込んだものだったという。

 父・一郎は参院を一期任期満了すると衆院への転身を図った。だが、臨んだ七六年の総選挙で落選した。佐藤さんは力なく佇(たたず)む父の姿を初めて見た。その時、思わぬ感情が湧いた。

「それまで挫折経験などなく、雲の上のような存在だった父が歩けないほどショックを受け、僕の肩に手をおいて歩き、『ありがとう』と言った。この時、父を助けなくてはと思った」

 それが父の秘書になるきっかけだった。

自民党を離党後新グループ「新党さきがけ(魁)」の結成を宣言する武村正義前衆院議員(右から6人目)ら=東京都内のホテルで1993年6月
自民党を離党後新グループ「新党さきがけ(魁)」の結成を宣言する武村正義前衆院議員(右から6人目)ら=東京都内のホテルで1993年6月

「断念」直前に小泉純一郎の電話

 八三年、周囲にかつがれる中、自身も県議選に出馬、県議となった。だが、なってみるとその仕事の限界を知る。当時の県の予算は政令指定都市の横浜に並ぶもので、県でできることは教育、道路、警察など限られていると実感した。

「陳情も県の土木工事などが来る。陳情という名の利権の手先になるのは嫌だなと思っていました」

 そんな思いの中、持ちかけられたのが参院補選だった。有力な公明党議員が急逝して空いた議席で、「あくまでもその補欠枠だけを埋める思惑の擁立だった」。もし自分が参院で出れば、衆院にいる父のほうに影響も出る可能性もある。そこで佐藤さんは父と話をし、今回は見合わせようと決めた。ところが、正にその瞬間、同じ神奈川で横須賀に地盤を持つ小泉純一郎氏が電話をかけてきた。小泉氏は電話がつながると開口一番、「息子さん出馬、おめでとう!」と声をかけてきた。これは大きな転機だったと佐藤さんは言う。

「もし数十秒前に、父から県連に電話して、僕の参院選出馬を断っていれば僕は出なかった。ところが、小泉さんが『おめでとう!』と言い、その流れで出馬話が進んだ。それで父も受け入れることになったし、僕の人生もそこで大きく変わることになったんです」

 そして進んだ参院で、その後の人生を決定づける活動に出合うことになった。政治改革と環境問題だ。

 国会議員になってすぐわかったのは、政治家の日々とはカネと派閥に縛られ、本来の政治とはほど遠いということだった。

「毎夜会合がある。行かないと悪口を言われる。行くと、その飲み代は役人や企業に押し付ける。こんなんじゃ政治なんてよくなるはずがないと思いました」

 そこで動き出したのが政治改革の活動だった。派閥が力を持つのは、中選挙区制で同党同士で戦わねばならず、選挙資金が必要なためだった。だが、もし小選挙区制になれば候補者は自党で整理される。であれば、派閥もカネも影響力は弱まる――という考えだった。

 佐藤さんは石破茂氏らと「政治改革を実現する若手議員の会」を結成。全国各地で講演会を実施するようになった。その後、政治改革の波は小沢一郎氏らが主導権を握り、宮澤喜一内閣の不信任案が可決。小沢氏らは離党して新生党、佐藤さんらは新党さきがけを結成した。この一連の動きが非自民の細川護熙(もりひろ)政権成立につながった。

 ただ、佐藤さんは大きく政治を動かしたこと自体への評価はするものの、それが続かなかったことについては複雑な思いを持つ。

「小沢さんと武村(正義)さんのメンツで政権運営がおかしくなった。結局、武村さんは小沢さんと袂(たもと)を分かち、自民・社会と組んで村山富市政権となった。ことここに及んで、僕も付き合いきれなくなりました」

 九五年八月、佐藤さんはひとり離党した。翌九六年、古くからの仲間である菅氏や鳩山氏らと民主党の結成に参画。腰を下ろして活動していくことになった。

二世を離れたから見えた「清貧」

 ただ、その頃には佐藤さんは中央政界の動きに距離をとるようになっていた。力を入れ出したのは、市民との対話であり、環境であり、無駄な公共事業への監視だった。市民と対話するための居酒屋を開き、市民大学を開校した。環境問題や公共事業問題にも力を入れた。九八年に参院議員となった中村敦夫氏と手を組むと「公共事業をチェックする議員の会」を拠(よ)り所(どころ)に、全国百カ所以上の公共事業を視察、河川法改正など関連法案に関わっていった。

 そんな活動の中で現実の自然や農の重要さもますます実感していった。

「農村、山村、漁村。そこで食と自然を守る人たちがいて、都市住民の水も食も成り立っている。農山村と都市をどう連携していけるかが僕のテーマになっていったんです」 印象深く残っているのは二〇〇五年に会った新潟の旧中里村の助役の言葉だ。隣の湯沢町がスキーリゾートの町として発展を遂げたが、中里村は変わらぬことを選んだ。その中里村も平成の大合併で十日町市に統合されようとしていた。

「でも、助役は『自分たちの宝物は清貧なんです』と言った。それは素朴な言葉だけど、僕には響いた。落選する少し前のことだったけれど、僕も清貧がいいんだと認識しましたね」

 そこで気づいた思いは自分自身のあり方を見つめ直すことにもつながった。それは長く自分を縛ってきた祖父や父に抱いてきたコンプレックスからの解放だ。

「父はミスター大蔵省と言われ、財界の人も頼るような人物だった。僕はその二世として期待される空気を感じてきた。僕の根っこはお代官が嫌いな時代劇だけれど、なかなか二世という肩書から離れることができなかった。でも全国を歩き回る中で『清貧でいい』という声を聞いた。それで自分も自由に生きようと思えたんです」

 政界を引退してから、無農薬栽培や食の安全に取り組んでいったのは、そんな思いがあったからだった。

「それは僕にとってセカンドステージと言っていいスタートだったと思います」

 そう佐藤さんは微笑(ほほえ)む。

 いま活動する中には前述の活動だけでなく、長野と横浜の若者を交流させたり、居場所のない青年を支援したりとさらなる広がりを見せている。そうして日々忙しく活動していると、若い頃聞いた本田靖春の言葉を思い出すという。

「政界だけ見ていては本当の社会は見えないという言葉。いま僕もいろんな活動をしていますが、いろんな風景を見てきた人たちが時代をつくっていける社会になるといいと思うんです。僕もまだたくさんやりたいことがありますしね」

 そう佐藤さんが話し終えたときには夜七時になっていた。話し過ぎましたかねと笑うと、今から保護猫の活動に行ってきますと歩き去っていった。

 ※今後は月1回掲載予定

もり・けん

 ジャーナリスト。専修大非常勤講師。2012年、『「つなみ」の子どもたち 作文に書かれなかった物語』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。17年には『小倉昌男 祈りと経営』で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞を受賞

 11月8日発売の「サンデー毎日11月20・27日合併号」には、「河合塾、駿台、東進、ベネッセ国公立・私立232大学4大模試最新難易度・医療系編」「激震永田町 野田佳彦首班で大連立構想が浮上! 消費税増税 自公立維『与ゆ党体制』現出か」「物価急騰&超円安 笑って暮らそう 荻原博子が緊急指南! 年末までにやれる10の知恵」などの記事を掲載しています。

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