週刊エコノミスト Online サンデー毎日
世界に通じるアートフィルムに挑戦した 映画監督・井上春生=ノンフィクションライター・石戸諭
閉塞感漂う時代に「風穴」を開けようとする人々を訪ねる好評連載「挑む者たち」。今回は、日本を代表する詩人と米国の前衛映画の巨匠(故人)との邂逅をドキュメンタリーとして描いた映画監督―。その内実に迫る。
それは2021年春のことである。一通のメールが届いた。
発端は私が聞き手とまとめ役を務め、文芸誌『群像』に寄稿したミュージシャン・佐野元春のインタビューだった。なんと日本を代表する詩人である吉増剛造が、佐野の歌詞、語られた内容を高く評価していたとのことで、佐野と吉増の対談番組が実現することになったことが記載されていた。
メールの差出人は、その対談番組の制作を請け負い、かつて吉増を主人公にしたドキュメンタリー映画を監督したこともある井上春生(59)だった。
番組を見て、あっと驚いたのは私のほうだった。吉増は佐野を一人の現代詩人として認め、彼が発する言葉を、作品を丁寧に受け止めていた。感性と感性がぶつかりながら、しかし、不思議なほど言葉が噛(か)み合い、往復しあう番組になっていたのだ。詩人の言葉は、時に私たちを抽象的な世界へと誘う。テレビドキュメンタリーの世界との相性は良くない。詩人の言葉をいかにして落とし込むか。この番組も、井上の映画も、絶妙なバランス感覚の上に成立していた。簡単なメールのやり取りだったが、私はもう一度驚くことになる。
井上の次の映画作品はアメリカ前衛映画の巨匠、ジョナス・メカス(1922~2019)の一周忌前後にニューヨークを吉増が訪れ、メカスのために詩を書く作品になるというのだ。偶然が彼らに味方し、新型コロナ禍でロックダウンする直前のニューヨークで、すでに撮影は終えたという。
そして22年秋に、再びメールが届いた。作品が完成した。その名は「眩暈 VERTIGO」―。
井上にとって最良の学校となった「深作組」
井上が映画の道を志したのは、同志社大学に通っていた1980年代前半のことだ。テレビから、目隠しをした少女が、父親と思(おぼ)しき男性に追いかけられる映像が流れてきた。一見すると、仲睦(むつ)まじい親子の映像かと思いきや、それは児童虐待防止を訴えるCMだった。少女は虐待を受けていたことが最後にわかるという仕掛けに感嘆した。映像が人間の認識を変える。この可能性に気がついたとき、進むべき道が決まった。
メカスの作品とも、この時に巡り合っている。第二次世界大戦時に祖国リトアニアを追われ、ナチス侵攻とともに身の危険を覚え、祖国からウィーンへと脱出を図る。しかし、到着を目前に彼はナチスに捕らえられ、強制労働キャンプに収容されるという経験をしながらもなお逃走生活を続ける。詩を描き続け、難民としてアメリカ・ニューヨークに渡ることに成功してからは、詩をフィルムに置き換えて自身の生活を撮り続けた。
そんなメカスの作品は、井上の人生にも大きな影響を与えることになる。
本格的に映画作りにかかわってみたいと思ったはいいが、80年代に「斜陽産業」扱いされていた映画界に新卒の求人はほとんどと言っていいほどなかった。悩んだところで答えが出るわけでもない。
ある時、彼は大学の寮に案内があった、福祉活動のボランティアに参加した。障害を抱えた家庭に赴き、そこで身の回りの世話をするというものだ。たまたま、彼が担当した家庭に、東映で映画監督をやっていたという男性の家があった。障害を持った息子の世話をしながら、井上が映画を作りたいと思っているのだが求人がないという話をすると、男性はそれならば年契約のスタッフという道があると教えてくれた。それだけでなく、東映の募集事情まで聞き、「助監督」の求人が出ているから応募してみるといいと勧めてくれた。
千載一遇のチャンスを掴(つか)んだ。
無事、契約を済ませると早速、現場に回された。深作欣二が監督を務め、吉永小百合、松田優作らが主要キャストを演じた『華の乱』である。深作は一度オッケーを出したシーンでも、何か一つでも気になることがあれば、躊躇(ちゅうちょ)なく撮り直しを指示する監督だった。昨日撮影が終わったはずのシーンを、翌日もう一度、最初から撮影する。自分もセリフをすべて覚え、カメラの前でセリフをつぶやきながら、役者の動きをじっと見つめる。理想と少しでもずれたら、躊躇なくNGを出していた。
東映の撮影現場は、古き良き日本映画の技術が生々しく残っている現場でもあった。
例えば照明である。屋内の撮影で、もっとも頭を悩ませるのが照明だ。なぜか。正解がないからだ。どのくらいの明るさにするか、時間によって変わっていく太陽の光をどの程度再現するか、登場人物たちの心象をどう表現するか、その角度から光を当てるのか……。そこに絶対の正解はなく、監督と照明スタッフはともに考え、何度もテストを繰り返し、ベストを探していく。調整ができたにもかかわらず、もう一度昨日のシーンを撮り直すというのは、照明からしても歓迎できない指示ではあったが、現場にあって深作の言うことは絶対だった。
深作の映画は一見すると役者を徹底的に動かし、派手なアクションを連続させているように見える。だが、その裏にあったのは、役者の息遣いまで緻密に考えて撮られた繊細な撮影手法だった。考え抜くことで、彼は偶然をも味方につけた。撮影の常識にもこだわらなかった。カメラを引いて撮るのがセオリーとされるシーンであっても、ぐっと寄せる。あるいはその逆もある。ルールというのは壊すためにある、というのが深作の根底にある思想だった。そんな東映、深作組は井上にとって、最良の学校でもあった。
数々の東映ヤクザ映画の名作を撮影したカメラマンのアパートに遊びに行ったときのことだ。彼は天井に白いシーツを張って、映写機を映し出すスクリーンがわりにした。そして、おもむろに影響を受けたという一本の16ミリフィルムを流しはじめた。それはメカスの映画だった。プロの目からみれば、ファインダーを覗(のぞ)かずに撮影し、露出の調整もしなければ、編集も粗い。同じカットが続くこともある。それでも惹(ひ)きつけられるのは、常識を覆そうという姿勢があるからだ。自分たちの撮り方はこれでいいのか。本当はもっと良い方法があるのではないか。前衛的なメカスの映像は腕利きのカメラマンにも刺激を与え、日本映画にも影響を与えていたという事実があった。
意を決して会いに行った巨匠「ジョナス・メカス」
その後、井上も独立し、CM撮影、テレビ番組の制作からミュージックビデオの撮影までさまざまな仕事をこなしながら、劇場用の映画も撮影した。
映画ばかりを作り続けるという人生ではなかったが、少なくとも仕事の依頼は途切れることなくキャリアを築くことができたという時期に、新しいオファーが舞い込む。
井上の知人でもある、詩人の城戸朱理(きどしゅり)が東日本大震災の津波に衝撃を受けて、詩が書けなくなってしまった吉増の姿を撮影してほしいと持ちかけてきた。最初は一本のテレビ番組になるだろうとカメラを回したが、四季折々の京都を旅しながら言葉を取り戻そうとする吉増の姿は、被写体としてあまりにも魅力的で、早々に映画化することを思い立つ。
完成させた「幻を見るひと」(2018年公開)は、吉増の友人でもあるメカスにも映像を送り、メールではあったが「詩と詩人について最高の映画だと思う」という感想をもらっていた。
どこかで一回、会うことはできないか。井上はこの映画がニューヨークシティインディペンデント国際映画祭に招待された18年2月、意を決し、メカスに会いに行く。ちょうど滞在期間中にメカスが、ニューヨークでイベントとサイン会を開くという情報を得ていた。
参加者の邪魔にならないよう、列の最後尾に並んだ。吉増の話をした後に、「明日、お会いできませんか」と聞いた。メカスは事務所に電話をくれと言ったのだが……。
「電話をかけても出ないんです。だから、直接ブルックリンの事務所に行って、ブザーを鳴らしました。でも、出てこない。大雨のなか、2時間ほど立って待っていました。このチャンスを逃したら、もう二度と話す機会はやってこないと思っていたんです」
何の前触れもなく2階の窓があき、仏頂面のメカスが上に来いと合図を送った。機嫌は悪そうではあったが、話す時間を割くことはわかった。冷蔵庫には、日付と細かい時間割が書かれた一日の予定表が張ってあった。それを見ると彼は何時に何をするか、計画を立てて過ごしていた。日々の予定表をつなぎあわせれば、それだけで彼の人生を物語ることができるものだ。作品の一場面のようなメモを見ると、ちょうど一つの仕事を終えた時間だった。
小一時間ほど、映画に関する話をしたあとに、メカスはマグカップにお茶を淹(い)れながら、井上にこう訊(たず)ねた。
「君は次に何を撮るつもりか?」
「眩暈 VERTIGO」は新しい地平を切り開けるか
それから約1年後、19年1月23日、アバンギャルドアートを牽引(けんいん)し続けた希代の映像作家、ジョナス・メカスは亡くなった。あの瞬間、明確に答えることができなかった問いに井上はこう答えることを決めた。
次は吉増剛造とメカスの親交を描く、と。
映画最大の見せ場は、亡きメカスを思い吉増が出来上がったばかりの詩を自ら読み上げるシーンだ。
彼らが降り立った20年1月のニューヨークは、新型コロナ禍が本格化する前の最後の季節だった。出資金を募ってから、撮影を開始するという案もあった。実際に見込みが立ちそうだという話もあったが、それだとスタートは最速でも20年夏になる。一周忌に撮影しなければ意味がないと考えていた井上は、自分の会社から資金を捻出し、撮影を優先した。この決断がすべてだった。出資を待っていれば、新型コロナの流行でニューヨークの撮影そのものができなくなっていた。
幸運はこれだけではなかった。
ブルックリンの事務所はちょうど息子のセバスチャンが遺品を整理し、引き払う準備をしている最中だった。息子と語らい、遺品を目にする。事務所のなかで撮影や取材を受けていた吉増は眩暈に襲われ、意識が朦朧(もうろう)としてしまう。
「これで企画そのものが終わってしまうかな、と思いました。どこか診察してくれる病院を探さないといけない、とスタッフの一名は走りました。メカスに捧(ささ)げる詩を考えるような状況ではないと僕たちは考えていました」
ところが吉増は移動する車内ではっきりと受け答えができるまでに回復し、「監督、もう大丈夫だから」と言った。ホテルで軽い睡眠をとり、体調を整えると、そこから一気に詩を書き上げた。
異端者、前衛を突き進む者同士の邂逅(かいこう)は、映像の世界でキャリアを積み上げた井上をも驚かせる一級のアートを生み出す。
彼はこんなことを言うのだ。
「僕が作りたかったのは、世界に通じるオルタナティブなアートフィルムでした。この作品が、もしニューヨーク近代美術館に映像作品としてアーカイブされたなら……」「それは日本映画の新しい地平を切り開くことになりますね」と私は言った。
井上は深く、ゆっくりと頷(うなず)いた。
(撮影・武市公孝)
いしど・さとる
1984年、東京都生まれ。2020年『ニューズウィーク日本版』の特集「百田尚樹現象」で「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」作品賞を受賞。21年『「自粛警察」の正体』(文藝春秋)で、PEPジャーナリズム大賞を受賞。新著に『東京ルポルタージュ』(毎日新聞出版)