「地方のプロ野球」を盛り上げる 埼玉武蔵ヒートベアーズ社長兼監督、角晃多
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角晃多 埼玉武蔵ヒートベアーズ社長兼監督/58
プロ野球独立リーグの一つ、BCリーグの球団である「埼玉武蔵ヒートベアーズ」で監督と球団社長、二足のわらじを履く角晃多さん。決して華やかではない独立リーグという場所に懸ける思いを聞いた。(聞き手=白鳥達哉・編集部)>>これまでの「ロングインタビュー 情熱人」はこちら
── 埼玉武蔵ヒートベアーズ(ベアーズ)の2022年シーズンは南地区で3位という結果でした。
角 ベアーズが所属するBC(ベースボール・チャレンジ)リーグは南と北の2地区で、それぞれ4チームが地区優勝を争い、その後、優勝したチーム同士で戦うプレーオフをもってシーズンが終了します。
今シーズンは、投手コーチ兼投手の由規(元東京ヤクルトスワローズ、東北楽天ゴールデンイーグルスなど)、ヘッドコーチ兼野手の片山博視(元楽天)に選手兼コーチとして働いてもらいました。これによって若手の育成、育てるベテラン選手の確立というのは形にできたように思います。
ただ、戦力的に考えるとジョイント役、若い選手とベテランの中間にあたる年齢層の選手が編成的にいなかったというのは反省すべき点ですね。
── 選手の年齢層はバランスが大事?
角 はっきりとそうだともいえないのですが、シーズン終盤、勝負所の試合でベテランがバテていたり、試合の大事なポイントで若手の勝負感の浅さが出たりということが重なって起きてしまった。中間の年齢層の選手は、このような時に元気よくチームを引っ張ってくれる存在になる。そういった選手の不在が、明暗を大きく分けたと感じています。
元巨人の角盈男氏の次男として生まれた晃多さんは、物心がついた頃からボールを打って遊んでいた。他にも小さな頃から水泳、サッカー、テニスと、いろいろなスポーツに打ち込んだが、小学校の高学年に差し掛かる頃には野球以外はやりたくなくなったという。「野球が楽しかったんでしょうね」と晃多さんは顔をほころばせる。
最後の打席に残る悔い
── 高校時代は名門校である東海大相模で、レギュラー選手として活躍します。
角 レギュラーになったのは2年生の秋からで、その間は出たり出なかったりが続きました。もちろん選手層が厚かったというのもありますが、中学時代、スライディングで膝の前十字靱帯(じんたい)を断裂したことが響きました。
入学までにケガはしっかり治したつもりだったのですが、1年生の時にまた断裂してしまった。ようやく復帰できたのが2年生の夏前。そのため、高校野球で活動できたのは、ほぼ1年半くらいでした。
── 最後の夏の全国高等学校野球選手権大会は、予選決勝で敗退してしまいます。
角 当時の打順は3番が大田泰示(横浜DeNAベイスターズ)、私が4番。監督の門馬敬治氏に、「大田が敬遠されたら、4番のお前が打つか打たないかで甲子園に行けるかが決まる」と言われていたのですが、決勝、それも最後の打者としてその場面がきました。
あの時、実は初めて「甲子園に行きたい、勝ちたい」って思ったんです。東海大相模に入った理由は“プロになりたかった”から。他の人たちよりも目立って良い成績を残し、自分の才能を認めてもらってNPB(日本野球機構=プロ野球)に行くことばかりで、甲子園のことは考えていませんでした。それまでは自分のためにしかやっていなかったのに、最後の打席でチームのためにと、いつもと違う心境で打席に入った。その時点で負けていたなと、今になって反省しています。
── その後は、育成選手として千葉ロッテマリーンズに入団します。
角 いま、選手をとる仕事をしているのでよく分かるのですけど、私のように膝の手術を2回もしている選手はリスクも大きく、なかなかスカウトも取りづらい。ただ、千葉ロッテのスカウトの一人が「彼のバッティングは良い」と評価してくれて、ドラフト会議前に行われた入団テストに参加できました。テスト結果をみて、問題ないと思ってもらえたのが入団につながったのかもしれません。
人間離れしたプロの練習量
── 同じプロから見て、一流の選手というのは何が違うのでしょうか。
角 技術は…
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