教養・歴史教え子が語る小宮隆太郎

小宮ゼミがエコノミストとしての礎――高田創・日銀審議委員

 昨年10月末に亡くなった恩師を愛弟子が振り返る。今回は、日銀審議委員の高田創氏に聞いた。(聞き手=浜條元保・編集部)

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── 東京大学経済学部の3年生でなぜ、小宮ゼミを選んだのか。

■私が小宮ゼミに入ったのは1980年。71年に米国が金とドルの交換を停止するニクソン・ショックが起き、73年には変動相場制に移行。70年代は、為替が自由に動き出すようになり、現在に通じる金融市場が生まれつつあった時代だ。中でも一番の話題は為替。また、70年代には第4次中東戦争をきっかけに2度の石油危機に遭遇し、日米欧の主要国は2桁を超える高いインフレに苦しめられた。

 こうした状況下で、ゼミ選びのための説明会に行くと、小宮隆太郎先生が「こんな面白い時代はない」という。それまでになかった市場や国際金融の理論がまさにリアルタイムで構築されようとする時期で、先生の興奮ぎみに話されたこの言葉に、ビビッと来るものがあった。そこで、小宮先生に教えを請うことを決めた。

── 1ドル=360円の固定相場から自由に動く世界への移行とは、それほどインパクトの大きい事態だったのですか。今では1ドル=360円時代を知らない世代が大半です。

■日本にとって、天地がひっくり返るような事態だったと思う。まさに金融市場の黎明(れいめい)期、米国で金融の自由化が始まり、それに遅れて日本が続いた。金融の大変革期だった。つまり、戦後のパラダイムがどんどん変わっていく時期だ。今思えば、こんなに面白い時代はなかったんだなと、小宮先生の言葉の意味がよくわかる。

白川前総裁を訪ねて

── 今、日本を含め世界は約40年ぶりともいわれるインフレに直面している。

■当時の2桁インフレや戦争など、振り返れば今に通じるものがある。約40年を経て昨年10月末に先生が亡くなり、再びこうしたインフレや戦争の時代に遭遇していることに、何か因縁を感じる。

── ゼミはどんな内容だったのですか。

■先生からは、為替や国際金融の理論を教わった。その当時の最先端の理論をゼミでやっていた。理論だけでなく、現実に起きている経済事象に注目するように小宮先生は指導された。そこで、ある時、ゼミの中でゼミの先輩にマネタリーアプローチ(国際収支や為替レートの変動を貨幣の需要と供給という視点から分析する手法)について聞きに行こうということになって、訪ねたのが白川方明さん(前日銀総裁)だった。白川さんが日銀入行後、米シカゴ大学の留学から戻ってきたばかりの頃だ。また、シカゴ大学のフリードマン教授の『選択の自由』が出版された時期で、それを読んだりもした。最先端の経済理論を学び、ゼミ論文を書いた。

── 印象的な授業や先生の言葉は?

■メディアで取り上げられているような常識的な言葉、空気のような、流された議論や発言をすると、必ず先生は「それって、英語で言うと?」と突っ込まれる。「論理的に考えなさい」という指導だったと思う。英語は、論理的に言葉を選んで話さないと通じない。言葉の定義や発言に曖昧さを許さないところがあった。日本語のあれとか、それとかは絶対にダメ。先生の「英語で言うと?」は、私たち学生には、少しキザに聞こえたところもあったけれど、論理性をもって、しかも経済学の理論を使って、考えるとどんな説明になるのかを常に問われたのだと思う。「曖昧にせずに経済理論できちんと考えなさい」と、それが先生の「英語で言うと?」だったのではないか。

── 社会人になって、小宮ゼミの教えは役に立った?

■私は大学を4年で卒業して、日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行、英オックスフォード大学の留学を経て、図らずも市場・調査部門で分析、調査をするアナリスト、ストラテジスト、エコノミストという仕事に40年近く従事することになった。小宮ゼミでの経済理論を使って論理的に考えろというトレーニングが、私のエコノミストとしての礎になっている。

 先生は卒業時に、こんな趣旨の話をされたのを今更ながらに思い出す。

「君たち全員が経済学を続けるわけではないけれど、役所でも民間企業でも、経済現象をいかに合理性、論理性をもって説明するか。それを実務のなかで、どう思考するか。それは単にイデオロギーではなく、経済理論をツールとして使って、考えていくということ。この2年間のゼミが、そのまま社会人生活の中で生かせる場面ばかりではないかもしれないけれど、常にそういうことを意識してほしい」

 先生のこのメッセージは、すごく印象深かった。

教え子にも学ぶ謙虚さ

── 小宮先生の教えを胸に、社会人の大半をマーケットと対峙(たいじ)する道を歩んだことになる。

■私は研究者ではない。しかも役所や政策当局でもなく、民間金融機関に勤め、約40年間にわたり市場を見続けてきた。金融が自由化される時代に、「市場の申し子」になったわけだ。先生と議論した世界で、出来の悪い私がどうにかやってこられた。その原点には小宮ゼミがある。

 先生にしても民間エコノミストという存在を最初、よくご存じなかったかもしれない。2000年代初、メディアのアナリストやエコノミストの人気ランキングのトップになると、「高田くん、そういう仕事もあったんだね」と言われたことがある。そして、「君も結構、頑張っているんだね」と、ねぎらってもらったのをよく覚えている。とてもうれしかった。

 またある時は、市場の動きに関して、「これは、どう考えればいいのか」と、先生が直接、私にメールを送ってこられたこともあった。市場の実務により近い立場にいる私に対して、先生は謙虚に尋ねられた。あんなに偉大な研究者なのに、私のような教え子にも学ぼうという姿勢には敬服するしかなかった。

── 小宮先生は、ゼミの卒業生の面倒見がよかったと評判です。

■実は、先生ご夫妻に仲人をしてもらった。その時には、奥様にもとてもよくしていただいた。また、オックスフォード大学に留学する際には、小宮先生に推薦状を書いてもらった。先輩たちの小宮ゼミは、先生もまだお若く、相当に厳しかったという評判を聞いたことがある。ただ、私たちの時代は少し違ったように思う。先生には3人のお嬢様がおられて、私は3女と同じ学年だった。つまり、先生にすれば、私たちの世代は子どものようなもの。ご自分の子どもを見るようなところもあり、先輩たちから見れば、「高田たちの時代の小宮先生は以前より丸くなられた」と感じたのではないか。しかし、私には十分に厳しかった。

 私だけでなく、卒業生の面倒見が本当にいい方だった。卒業生は、折に触れ気に掛けてもらっていたのだと思う。今でも「士会」としてゼミOB・OG会が続いていることでもわかるように、とても強い結束力があり、絆がある。「同じ釜の飯を食う」という感じで、私は末席ではあるものの、そこに強いつながりを今も感じる。これもすべて小宮先生のお人柄、今の自分は見えない糸に導かれているように思う。


 ■人物略歴

たかた はじめ

 1982年東京大学経済学部卒。同年4月日本興業銀行(現みずほ銀行)入行。みずほ証券執行役員グローバル・リサーチ本部副本部長、岡三証券グローバル・リサーチ・センター理事長などを経て2022年7月から現職。


週刊エコノミスト2023年2月21日号掲載

教え子が語る小宮隆太郎 高田創「小宮ゼミが私のエコノミストとしての礎」

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