マルクスとモースに依拠して人類学の価値理論を構築 評者・服部茂幸
『価値論 人類学からの総合的視座の構築』
著者 デヴィッド・グレーバー(人類学者) 訳者 藤倉達郎
以文社 5280円
本書は、大切なのは究極的にはモノではなく行為だと前提して、人類学における価値の理論を作ろうとする意欲作である。この問題は、世界には完全に固定された形態ということがあり得るのか、逆に万物は流転しているのかという古代ギリシャにさかのぼる哲学的な論争とも関係する。
このグレーバーの試みは、1980年代に流行した批判理論やポストモダンとも関わる。80年代の知識人は、ポストモダンは不可避な現実で、新しい状況にただ適応するしかないと示唆してきた。そうした認識によって、社会が変革できるという感覚、構想を現実に変換できるという感覚、人間の可能性と現実の性質を理解しようとする関心が危機に陥り、結果的に新自由主義を広げることを助けてきたとグレーバーは訴える。
本書が依拠するのはマルクスとモースである。けれども、マルクス主義は存在する社会的システムを抑圧的なシステムとして再生産することに寄与すると考えがちである。逆にモースにはこうした大きなシステムという視点はない。しかし、日常の生活ではこうした極端な立場の中間を行くことは当たり前に行われている。この二つの立場に妥協があり得ないように見えるのは、西洋哲学の静態的な見方にとらわれているからだとグレーバーは言う。
さて、17~18世紀のイロコイ(北アメリカ東部の原住民の部族連合。5部族もしくは6部族からなる連邦制は米合衆国の連邦制のモデルの一つとなったともいわれる)は、絶え間ない、時として侵略的な戦争を行ってきたが、根本的に平和の理念に基づく社会秩序を永遠に再生産していると考えていた。
こうした静態的な歴史観を再生しているのが儀礼である。これは儀式を考える上で重要な指摘だと評者は考える。儀式も行為の一つであり、普通に考えると行為は変化を引き起こす。けれども、儀式においては行為はあるべき理想を取り戻すためのスタビライザー(安定のための装置)になっている。こうして変化をもたらすはずの行為が静態的な社会認識を再生産することになる。
けれども、本書は当事者が儀礼の効果を必ずしも信じていないことも指摘している。魔術についても当事者は疑っているともいう。それでも「本物かもしれない」という可能性がある限り、人々はそれに従うのである。これも重要な指摘だろう。
同時に「社会は変えられるはずだ」という感覚は社会を変えることになるだろう。
(服部茂幸・同志社大学教授)
David Graeber 1961年米ニューヨーク生まれ。シカゴ大学大学院人類学研究科博士課程修了。2013年よりロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授を務め、20年に死去。邦訳書に『ブルシット・ジョブ』など。
週刊エコノミスト2023年4月4日号掲載
『価値論 人類学からの総合的視座の構築』 評者・服部茂幸