労働者らの声を7世代にわたって集め“階級の梯子”は神話だとする告発の書 評者・藤好陽太郎
『蛇と梯子 イギリスの社会的流動性神話』
著者 セリーナ・トッド(オックスフォード大学教授) 訳者 近藤康裕
みずず書房 6600円
英国で街を歩くと、袋に書かれたスーパーの名前や発音などから「階級」が透かし見える。下層階級を主人公としたディケンズの小説や、貴族と使用人を描いたドラマ「ダウントン・アビー」は高い人気を誇り、階級への好奇の目を裏付けている。
時の政権は、英国はメリトクラシー(実力主義)社会であると喧伝(けんでん)し、どの階級でも努力次第で梯子(はしご)をのぼれるというストーリーを再生産してきた。同時に、上流階級にはノーブレス・オブリージュ(高貴なるものの義務)があり、危機には弱者を守るといった見方もなお残っている。
本書は、英国の階級社会をめぐり、記録文書や回顧録を7世代にわたり渉猟した実証研究であり、壮大なノンフィクションである。統計に表れづらい、労働者や中流層の声をすくい上げ、実像を浮かび上がらせた点で、比類するものがないだろう。
工業化社会の拡大期や第二次大戦後に社会保障政策を充実させた時期は、確かに多くの人が梯子をのぼった。労働者階級の子弟は、急増するホワイトカラーの仕事に就き、小説などで「階級上昇は大きな困難にも抗(あらが)う英雄的な奮闘として示された」。1960年代末には労働者階級出身の大学講師の割合は33%に達し、貧富の格差も大幅に減ったという。
しかし、サッチャー政権が新自由主義的な政策を採用すると、事態は一変する。奨学金の削減や授業料の引き上げに加え、「自己責任」を求める声が個人を追い詰める。
例えば、カレン・フットは、裕福な友人と自分を比較し、「自分たちには足りないものがあると感じ」、16歳で摂食障害となる。クレア・トリントンは授業料の高さから、大学進学を断念。原因を「家族の『向上心の低さ』と自分の『自信のなさ』にあると考え」、不安とストレスに苦しみ続ける。本書は、梯子をのぼれるというストーリーは神話であり、多くは不遇をかこってきたと告発する。
仮に階級上昇を果たしても、しばしば出自を誰にも言うまいと決めたり、親の仕事を恥ずかしくてたまらないと感じたりするという。根が深い問題なのである。
かつて所得が高かった熟練労働者の誇りが廃れ、粗野な労働者階級の若者に「チャヴ」という蔑称もつけられた。年収100万円程度の最底辺の「プレカリアート」という階級も生まれ、人口の15%を占める。格差と分断は目を覆わんばかりだ。
日本も「総中流時代」は過去のことで、格差が深刻化している。英国は日本の近未来ではない、とは言い切れない。
(藤好陽太郎・追手門学院大学教授)
Selina Todd 1975年生まれ。英ニューカッスル・アポン・タインで育つ。ウォリック大学卒業後、サセックス大学大学院で博士号取得。邦訳のある著書に『ザ・ピープル イギリス労働者階級の盛衰』がある。
週刊エコノミスト2023年4月4日号掲載
『蛇と梯子 イギリスの社会的流動性神話』 評者・藤好陽太郎