経済・企業

本当なら社名は「ホルヒ」だった!――自分の名前が禁止されたアウディ創業者を襲った試練とは/4

1914年発売の「アウディ タイプ3」。エアチューブタイヤや方向指示器などを採用(右は説明役のモーリッツさん)
1914年発売の「アウディ タイプ3」。エアチューブタイヤや方向指示器などを採用(右は説明役のモーリッツさん)

「アウディ」という名前はどこから来たのだろうか?ドイツ高級車の「御三家」と言われながらメルセデス・ベンツやBMWほど、その由来は知られていないというのが日本の読者の実感ではないか。

 車が好きな私も、「確か4社が合併して、社名がアウトユニオン(Auto Union)になったから、Auto Union Deutsche Industrie(ドイツ産業界のアウトユニオン)とか、Auto Union Deutschland Ingolstadt(独インゴルシュタットのアウトユニオン)の略称か」と何となく思っていた程度だった。

 しかし、独インゴルシュタットの本社敷地内にあるアウディミュージアムを訪ねてみると、その考えは全く的外れなことが判明した。

ベンツ工場長だった創業者のオーグスト・ホルヒ氏

 アウディの歴史は、1899年、ドイツの技術者、オーグスト・ホルヒ(August Horch)氏がケルンに設立した自動車製造会社「オーグスト・ホルヒ」に始まる。ホルヒ氏はザクセン州の工業学校を卒業し、最初はエンジン製造に従事、その後、マンハイムのカール・ベンツ社で工場長として働いていた。

アウディの創業者、オーグスト・ホルヒ氏(Audi AG提供)
アウディの創業者、オーグスト・ホルヒ氏(Audi AG提供)

 だが、アウディミュージアムで案内してくれたモーリッツさんによると、「ベンツ氏とホルヒ氏の関係は、水と火の関係でした」という。「着想豊かなエンジニアであったホルヒ氏は、商品化したいアイデアがたくさんありました。でも、ベンツの工場では実現できなかったため、独立に踏み切ったのです」。

 1899年の独立後は、車やオートバイのエンジンを修理しながら日銭を稼ぎ、1901年に第1号車を完成、その後、1902年にはザクセン州のライヒェンバッハ、04年に同ツビッカウに本社を移転し、会社の形態も株式会社に転換した。

120年前からアルミのエンジン

 アウディミュージアムには、1903年に作られたホルヒの4輪車が置いてある。展示品では最も古い車だ。エンジンの出力は10~12馬力、最高速度は50キロ。モーリッツさんは、「車の下回りを見て下さい」という。「エンジンやギアのカバーがアルミでできています。同じものを鉄で作るのに比べ8キログラムは軽い。当時の時代背景を考えると、軽量化のためにアルミ素材を使うのは凄いことです。また、駆動にはドライブシャフトを用いています。ライバルたちがベルトやチェーンを使っていましたが、ドライブシャフトはメンテナンスやパワーの伝達で有利でした」と革新性を強調する。値段は当時で7000マルク。普通の労働者の100年分の給与に相当した。

「ホルヒ」は当初から革新的な技術を採用した(ホルヒの1903年モデル)
「ホルヒ」は当初から革新的な技術を採用した(ホルヒの1903年モデル)

ホルヒ氏、創業した会社から追放される

 1906年には年100台を製造する規模にまで会社は拡大していた。そして1909年、会社が初めて利益を計上した年に一大事件が起こる。同社の投資家たちが、ホルヒ氏を会社から追い出すことを決めたのだ。ホルヒ氏は最新の技術にはこだわりがあったが、お金を儲けることには無頓着だった。

 社長を解任されたホルヒ氏は同年、親しい友人と新会社をホルヒ社から300メートル離れた場所に設立する。相手がどんな車を作っているか、すぐに把握するためだ。ホルヒ氏は当然、新会社に自分の名前を使おうとした。だが、ホルヒ社は、ホルヒ氏を解任した直後に、人気ブランドの「ホルヒ」を幾重にも商標登録していた。ホルヒ氏は法廷闘争に持ち込んで争ったが、結局、新会社に自分の名前を使うことは認められなかった。

名前のラテン語読みから「アウディ」と命名

 新しい名前を考える必要がある。ホルヒ氏が新会社の投資家と相談しているときに、ラテン語を学んでいた投資家の息子が、「ホルヒ(Horch:ドイツ語で『聞く』の意)をラテン語に訳すとAudioになる」とアイデアを出した。「Audioなら国際的にも理解できる」ということで、新会社の名前は、「AUDI」に決まった。これが、アウディブランドの始まりである。

1920年代の「アウディタイプM」。ボディは木製で6気筒エンジンを搭載し、時速120キロで走れた
1920年代の「アウディタイプM」。ボディは木製で6気筒エンジンを搭載し、時速120キロで走れた

アウディの「四つの輪」

 アウディは「四つの輪」から成るが、このように最初の一つは「ホルヒ」、二つ目は「アウディ」である。三つ目は、「ヴァンダラー(Wanderer)」だ。ドイツ語でさすらい人を意味する。英語のRoverと同じだ。1885年にザクセン州のケムニッツで創業され、最初は自転車、1902年からオートバイ、1913年から自動車の製造をスタートした。

ホルヒの直列8気筒エンジン車。アウディのタイプMを強く意識。8気筒エンジンを開発したのはホルヒに移籍したパウル・ダイムラー(ゴットリープ・ダイムラーの長男)
ホルヒの直列8気筒エンジン車。アウディのタイプMを強く意識。8気筒エンジンを開発したのはホルヒに移籍したパウル・ダイムラー(ゴットリープ・ダイムラーの長男)

世界最大の2輪メーカーに

 四つ目の輪は、「DKW」だ。名前は「Dampf Kraft Wagen(蒸気自動車)」から由来する。元々は「ラスムッセン&エルンスト」の社名でヴァンダラーと同じケムニッツに1902年に創業された。第1次世界大戦のときに、ガソリンが入手しにくかったため、蒸気自動車を考案したが、効率的ではなかったため、2ストロークのガソリンエンジンを開発し、それを搭載したオートバイを製造し始めた。モーリッツさんによると、1926年には世界最大のオートバイメーカーになっていたという。そこで儲けたお金で、ホルヒとアウディに投資。アウディの技術陣にわずか6週間で、2ストロークエンジンを搭載する前輪駆動(FF)の四輪車を造らせた。機構が簡単で値段が安かったため、1930年代に3万台以上を売る大ヒット車になった。

「ヴァンダラー」のオートバイ。木のペダルはエンジン始動に使った
「ヴァンダラー」のオートバイ。木のペダルはエンジン始動に使った

1929年の大恐慌で4社合併し「アウトユニオン」に

 第1次世界大戦後のドイツは、世界的なモータリゼーションの波もあり、ドイツ全土に60社以上の自動車会社が設立された。しかし、1929年10月に米国で始まった「大恐慌」により、ドイツ自動車界は深刻な打撃を受け、16社にまで淘汰される。

 世界恐慌で経営不振に陥った4社は、4社ともザクセン州立銀行からお金を借りており、銀行から「生き残るためには合併すべき。そうしなければ融資を打ち切る」と通告された。そこで、1932年6月29日に4社が合併し「Auto Union(アウトユニオン)」社(登記上の存続会社はDKW)となった。モーリッツさんは「ドイツでは今も昔も結婚すると指輪を交換します。4社は結婚の証として、四つの輪を新会社のシンボルとしたのです」と話す。

4ブランドで違うセグメントを分担

 合併後は、DKWがオートバイと低価格のエントリーカー、ヴァンダラーがミドルクラスの車、アウディがプレミアムカー、ホルヒがラグジュアリーカーとして、新会社の下でそれぞれのブランドを展開した。

モータースポーツでの活躍を販促に

 統合後の新会社が、宣伝のために力を入れたのがモータースポーツだ。フェルディナント・ポルシェ博士が持ち込んだ設計図を基に、ホルヒの工場で現在のフォーミュラーカーの原型となる車両「シルバーアロー」を完成させた。1934年からのグランプリレースの新しいレギュレーションのもと、好敵手のメルセデスと一騎打ちを演じた。「1930年代は決勝の行われる日曜日の勝利が、翌日の販売に結び付く“Win on Sunday, Sell on Monday”の時代でした」(モーリッツさん)。1937年にはアウトユニオンのレースカーが時速406キロと、人類で初めて時速400キロを超え、その高性能をアピールしている。

1930年代はモータースポーツでの勝利が車の販売につながった
1930年代はモータースポーツでの勝利が車の販売につながった

敗戦でソ連に接収され、会社は一旦、消滅

 しかし、第2次世界大戦のドイツ敗北で、アウトユニオンの運命は再び暗転する。旧ソ連が占領したザクセン州にあったアウトユニオンはソ連軍に接収され、生産設備は解体され、1948年には登記上の本社があったケムニッツ市の登記簿からも削除された。1945年春の段階で1万7300人の強制労働者と戦争捕虜、3700人の強制労働所の囚人をアウトユニオングループで働かせていた事実は、会社が今も背負い続ける負の歴史の一部である。

バイエルン州インゴルシュタットで再スタート

 アウトユニオンは、1949年9月3日、西側のバイエルン州に移り住んだ従業員たちにより、同州のインゴルシュタットで再スタートを切る。インゴルシュタットは、ミュンヘンやニュルンベルグに比べ戦争の被害が少なく、旧軍の駐屯地として兵舎や武器庫などの建物が残っていたほか、バイエルン州の中心にあり物流面で便利であったこと、また、バイエルン州の銀行が融資してくれたことが理由だ。

アウトユニオンは戦後、DKWの低価格の2ストロークエンジン車で消費者の需要に応えた
アウトユニオンは戦後、DKWの低価格の2ストロークエンジン車で消費者の需要に応えた

2ストローク車の不振でダイムラーに身売り、そしてVW傘下に

 戦後は、DKWとアウトユニオンの2ブランドで、2ストロークエンジンのオートバイや貨物車、乗用車を製造した。一時は利益の30%がオートバイからもたらされた。しかし、オートバイ市場は1958年、消費者の関心が四輪車に移ったため、急激に縮小。経営危機に陥ったアウトユニオンは、1958年にダイムラー・ベンツに身売りする。だが、DKWの2ストロークのエンジンを搭載した自動車は騒音や振動、排気ガスなどの問題から、もはや、消費者に受け入れられず販売が低迷、1964年に今度は、フォルクスワーゲン(VW)の傘下に入った。

ダイムラーの置き土産の4ストロークエンジンで復活の端緒

 VWの傘下で、アウトユニオンは独自の開発を禁止され、VWの人気車ビートルの製造などに専念する。そうした中、1963年に開発していた2ストロークのDKB乗用車「F102」にダイムラー時代の置き土産である4ストローク、4気筒エンジンを搭載した「タイプ・アウディ」を1965年に発売、そのヒットにより会社は息を吹き返す。アウディブランドの復活と同時に、2ストロークエンジンのイメージが強すぎたDKWブランドは廃止されることになった。

アウディの今の礎を築いた「アウディ100」

 こうした中、2ストロークエンジン問題を解決するため、ダイムラーからアウトユニオンに送り込まれ、その後、同社の開発部門トップに就任したルードヴィッヒ・クラウス氏がVWには内緒でアウトユニオン独自の車両を開発していた。その車両は1968年11月に、「アウディ100」として発表された。VWのCEOは当初、この行為に激怒したが、「まずは、10万台の製造を許可して様子を見た」(モーリッツさん)。この車は、その後の8年間で80万台販売のヒットとなり、現在のアウディの礎を築くことになる。

1968年発表の「アウディ100」は現在のアウディの礎となった(Audi AG提供)
1968年発表の「アウディ100」は現在のアウディの礎となった(Audi AG提供)

「ロータリーエンジン」のNSUとの合併

 アウトユニオンは、その後、1969年3月に、同じくVW傘下にあったNSU社と合併し、「アウディNSUアウトユニオン社」になる。NSUは、マツダが今も製造しているロータリーエンジン(ヴァンケルモーター)を開発した会社だ。新会社の本社は、NSUがあったネッカーズルムに置かれた。そして、1985年1月にアウディNSUアウトユニオンはアウディに改名され、本社もインゴルシュタットに移転、現在に至っている。

ピエヒ氏の下で、ブランドを確立

 その間、フェルディナント・ポルシェ博士の孫であるフェルディナント・ピエヒ氏が1975年から88年までアウディの開発部門トップ、88年から92年までアウディ会長を務め、常時4輪駆動車の開発などにより、アウディのブランド価値を高めたのは良く知られている。ピエヒ氏はその後、VWの会長となった。

 ちなみに、「ホルヒ」ブランドは、アウディが2021年11月に発表した中国専用モデルの最上級セダン「A8 L Horch」として復活している。

1968年発表の「アウディ100」はアウディ復活の立役者だった(Audi AG提供)
1968年発表の「アウディ100」はアウディ復活の立役者だった(Audi AG提供)

モナコ公国より広いインゴルシュタット本社

 今回取材で訪ねたインゴルシュタット本社には本社の管理部門、開発部門、工場などがあり、広さは2.9平方キロメートルで「モナコ公国(2・02平方キロメートル)より大きく、町の中に町があるよう」(モーリッツさん)。アウディ関係者の人数は4万3000人で、インゴルシュタットの人口14万人の3割を占める。市内を散策すると、当たり前だが、車はアウディだらけだ。前回紹介した大型充電施設「アウディ・チャージングハブ」をインゴルシュタットに建設しなかったのも、ここに作ると、利用者はアウディ関係者だらけになり、実証実験にならないからだ。

インゴルシュタットの本社にあるアウディミュージアムには年間10万人が訪れる
インゴルシュタットの本社にあるアウディミュージアムには年間10万人が訪れる

本社に購入者の車の引き取りスペースも

 本社には広大な屋内駐車スペースが設けられ、アウディ車を購入した人が欧州各地から飛行機や電車で訪れ、自分の車を引き取りに来る。ここで、アウディの担当者から詳細な説明を受け、車のキーを受け取り、自分の家まで走って帰る。本社には立派なレストランも併設されている。事前予約すれば、本社工場も英語のガイド付きで見学可能だ。

 なぜ、アウディは大胆に、エンジン車から電気自動車(EV)へのシフトを進めているのか。ピンチに何度も見舞われながらも、そのたびに先端技術で復活を遂げたアウディの社風を知るためにも、アウディミュージアムは格好の場所であろう。

(稲留正英・編集部)

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