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俳優・作家 高見のっぽ「ノッポさんは、私であって私ではなかった」(2018年9月11日)

 
 

 NHKの工作番組「できるかな」で活躍した「ノッポさん」こと高見のっぽさんが2022年9月10日に死去していたことが、23年5月10日に分かりました。週刊エコノミストは2018年9月11日号にインタビューを掲載しています。改めてオンラインで公開します。※記事中の肩書、年齢等は全て当時のままです。

ワイドインタビュー問答有用(週刊エコノミスト2018年9月11日号掲載)

俳優・作家 高見のっぽ

「♪できるかな、できるかな♪」。自宅や幼稚園、小学校のテレビから流れてくるオープニングソングを聴いたかつてのおチビちゃんたち。主人公のノッポさんの登場ですよ。(聞き手=浜条元保・編集部)

しゃべらずに工作

「どんなポーズがいいかな? 渋い感じ? 愉快なの? それとも軽快なタップダンス?」 取材中、カメラを向けると、サービス満点のいろんなポーズを取ってみせるノッポさん。御年84歳にして、まだまだ元気に活躍中だ。「大きくなったね、おチビちゃん。どれどれ」。のっぽさんにかかれば、インタビューする50歳の筆者も「おチビちゃん」だ。ノッポさんはおもむろにペンを走らせると、名刺(ノッポさんとゴン太君のイラスト入り)に「直筆のイラストとサイン」をして手渡してくれた。同席したカメラマンにも。「そう、のっぽさんはみんなに優しいのです」と満面の笑みを浮かべる。「今日は、ノッポさんのすべてをお話ししましょう。おチビちゃんたち、ちゃんと聞けるかな」。

── 今でも、かつてのおチビちゃんから声を掛けられるそうですね。

ノッポさん 行きつけのおそば屋さんで、一人おそばをすすっていたら、お勘定のところが妙に騒がしい。目をやると、二人のご婦人が会計をしながら、体を小突きあい、二人の目がチラチラと私の表情をのぞく。すると、一人が意を決して私の前に。「あの、ノッポさんですよね?」とご婦人。小さくコクリとうなずく私。「やっぱり、あのノッポさんだわ」と二人でおおはしゃぎ。私が立ち上がって、握手。

「二人とも大きくなられました。おいくつになられましたか?」

「五十ウン歳で~す」

「ヨロシイ! 握手だけでは面白くない。今日は、イイコ、イイコをしてあげるから頭を出しなさい」

「ハーイ」

 差し出した二つの頭を私がナデナデすると、二人のご婦人が身も世もないといった風情で身をよじる。普通、女性が頭をさわられるのは嫌がるはずなのにね。本当にうれしいことですよ。

── 大きくなったおチビちゃんたちと、こんなふうに再会すると、時間の経過を感じますか。

ノッポさん それは感じません。私にとっておチビちゃんは、いつまでもおチビちゃんですから。こうした再会は、昔のノッポさんとおチビちゃんとの関係に戻ったようで、すごくうれしい気持ちになります。

 1970年から90年までの20年間、日本中の子どもを夢中にさせたNHK教育テレビの幼児向け教育番組「できるかな」の主人公ノッポさん。181センチの長身にチューリップハットとサスペンダー、パンタロン姿がお決まりの衣装だ。言葉は一言も発せず、身近な素材を使ってロボットや動物、乗り物を作って、相棒の人形「ゴン太君」を驚かせたり、一緒に遊んだりする、当時としては斬新な造形番組だった。

── 20年も続いた「できるかな」には、思い出がたくさん詰まっているのではないですか。

ノッポさん もうそれはあり過ぎて……。思い出とは少し違うかもしれませんが、収録でNGを出さないことが自慢でした。一発ですべてOK。15分間一度も止めずに最後までやりました。ただ、正確に言うと、1度だけNGを出したことがあります。

撮影=武市公孝
撮影=武市公孝

── どんなNGですか。

ノッポさん 大きな厚紙を筒状にして巨大ロケットを何本も作り、ロケット基地にする番組でした。順調にロケットができて、最後、ゴン太君に見事なロケット基地ができただろうと、ノッポさんが自慢のポーズに入ろうとした時です。真ん中の一番大きなロケットが下の方から、ビシ、ビシ、ビシと厚紙をくっつけているセロテープがはがれだし、ボワーンとスタジオのフロア一面に広がってしまったのです。これはダメだよな、となって最初から撮り直しになりました。これが最初で最後のNGです。

── 事前の打ち合わせ通りにいかない時でも、臨機応変にアドリブで乗り切ってきたということですか。

ノッポさん そうです。時間は私が責任を持っていました。音楽が流れているから、それで大枠の時間を把握して、例えば工作作業が予定よりも短く終われば、ゴン太君と遊びの時間を長くしたりするなど、自分で案配しながら15分間の番組を一気に撮り切るのです。

米国人ダンサーに憧れ

── 20年も続けられたのは、スタッフに恵まれたからですか。

ノッポさん それはもう、みんな完璧ですよ。造形指導の枝常弘さん、ゴン太君、声の「のこ姉」(つかせのりこ)さんはじめ、本当にスタッフに恵まれました。みんなモノづくりの名人ばかりです。その中で、私が特別ブキッチョだった(笑)。

── 特別不器用なノッポさんがなぜ、主人公に抜擢(ばってき)されたのですか。

ノッポさん 動きですね。音楽に合わせて踊ったり、芝居したり。自分で言うのもなんですが、これは誰にもまねできない、日本人離れしたものを持っていたと自負しています。

── どうやって身に着けた?

ノッポさん こればかりは、持って生まれたものでしょうね。誰に教わったというものではない。ただ、戦争中の疎開先だった岐阜県の笠松という田舎町で、中学生だった私はフレッド・アステアのダンス映画を熱心に観ました。アステアは世界一のダンサーです。日曜日には弁当を持って映画館に行って1回目の上映から観て、2回目はアステアのダンスシーンにうっとりする。当時としては、相当ハイカラな中学生ですよね。米国人ダンサーに興味をもって、映画館に通う中学生ですから。

── 芸人だったお父さんの影響はありますか。

ノッポさん それはあるでしょうね。しかし、おやじは私にあとを継がせようとか、私が継ごうとも思っていませんでした。ところが、こうした稼業についている。「カエルの子はカエル」ですね。

 ノッポさんの父・高見嘉一さんは「松旭斎天秀」の芸名の舞台俳優であり、「チャーリー高見」なるチャップリンの物まねを得意とするマジシャンでもあった。母は東京・国技館の相撲茶屋に生まれ育った4人姉妹の三女・おキンさん。一回り以上離れた兄姉たちに可愛がられ、ノッポさんは家族全員の愛情を一身に受けて育った。

── 両親や兄姉からノッポさんは可愛がられた?

ノッポさん それはもう。相当な可愛がりようです。大人になって、一回り違う兄貴から、おやじの溺愛ぶりに嫉妬したと打ち明けられたほどです。おやじは私が生まれるとすぐに「この子はできる子」と決めたようです。

撮影=武市公孝
撮影=武市公孝

── どういうことですか。

ノッポさん おやじにけなされたことは一度もありませんが、褒められたこともない。少々のお手柄なんぞ、「できる子なんだから当たり前」ということです。おやじが死ぬ数年前、私がいくらか芸人として仕事ができるようになって、それを褒めてもらおうと報告に行くと、けげんな顔をして私にこう言ったのをよく覚えています。「ワザワザそんなこと言いに来たの? あなたなら当然でしょう。あなたならもっとできます」。私を信じて疑わない人だったんです。

おやじのカバン持ち

── お母さんや兄姉は?

ノッポさん 母親と姉は「ガンバレ、ガンバレ」と言い続けました。兄貴は弟に敬意を表していましたね。文句を言われたり、「あれをやれ」と指示されたことは一度もない。

── 高校時代からお父さんの芸人「チャーリー高見」のカバン持ち役を引き受けたのは、なぜですか。

ノッポさん おやじの指名です。当時、東京・立川の進学校に通っていたのですが、母親から「大学に行くなら自分のお金で行ってちょうだい」と言われて「僕は大学に行かなくても賢い」と強がっていました。おやじの仕事は夕方からなので、学校から帰って詰め襟からジャンパーに着替えて、進駐軍のベースキャンプのクラブにおやじと仕事に出かけました。複雑でしたね。カバン持ちが芸人稼業の第一歩なら、私はまったくそれを望んでいない。なのに現実の身分はカバン持ち……。

「これからいろいろあると思うんだよ。でも、このおじいさんが見ているからさ、がんばってね」

 ノッポさんは高校を卒業後、就職せず昼間は兄の仕事を手伝いながら、父のカバン持ちを続けたり、姉の資金支援で声楽やバレエなどの習い事をして、俳優を目指した。まったく仕事のない時期もあったが、父やその友人、姉兄らの応援、さらに自身の努力で芸人としての道が開けてくる。

「できるかな」のスタッフたちと(左から造形指導の枝常弘さん、ノッポさん、ゴン太君、声のつかせのりこさん)
「できるかな」のスタッフたちと(左から造形指導の枝常弘さん、ノッポさん、ゴン太君、声のつかせのりこさん)

── 就職もせず、今でいうフリーターみたいな存在ですよね。家族は心配したのではないですか。

ノッポさん 何も言わずに、温かく見守ってくれました。ただ姉からは、高校を卒業して数カ月たった頃だったでしょうか。きつくこう言われたことがあります。「あんたには普通の人のお勤めは無理。商売も無理。せっかくお父さんがいるんだから、あんたも何か演(や)ればいいのよ」。言葉はきついのですが、これも愛情あふれる私への応援です。こういって毎月3000円を出してもらって俳優・芸人になるための習い事をさせてもらいました。

── しかし、決まった仕事もなく、自分でも不安ではなかったですか。

ノッポさん 不安がなかったと言えば、うそです。ただ、今振り返ると、私を芸人や俳優として一人前にしようと、とても不思議で幸運な後押しがありました。

しゃべっちゃた!!最終回

── どんな後押しですか。

ノッポさん 無名の新入り芸人の私にキャバレーのフロアショーやおやじの紹介で日劇ミュージックホールなどの仕事がもらえました。公演が終わると、その演出家からまた次の仕事を紹介されるといった感じです。すべて親がかり、兄姉義姉がかり、友人がかり。私はずいぶんと優しい人たちに可愛がられ、そうした人たちに囲まれていました。

── NHKへの出演も偶然舞い込んできたんですか。

ノッポさん そうです。ある番組の最終回に男性ダンサーが一人足りないからと、私に声がかかりました。当時、東京・内幸町にあったNHKのスタジオで、うまく踊り終わり、スタジオを出ようとした時にミラクルが起きました。

── 何が起きたのですか。

ノッポさん 私のダンスを見ていたプロデューサーが「この後に始まる新番組の司会者をやる気ある?」と言うではありませんか。NHKの音楽番組の司会者ですよ。世間で言うこれが幸運ってやつ、こんなことが本当にあるんだと思いました。

── そのまま「できるかな」につながるわけですか。

ノッポさん 残念ながら、その番組はすぐに終わってしまって、その後、作詞をしたり、テレビの臨時雇いで出演したりという生活を続けました。最初のNHK番組の司会者に抜擢されたと同時に、結婚したので稼がないといけなかったのです。親がかり、兄姉、友人がかりの私にすれば、大した成長。でも、NHKで仕事ができたことは私には大きかったと思います。数年後、知り合ったプロデューサーが、NHK新番組のオファーをくれました。33歳の時です。

 1967年に始まったノッポさん司会の造形番組「なにしてあそぼう」は、全編15分を音楽のみで、出演者はセリフなし。スタート直後から好評となるが、NHK番組編成担当者が交代し、4年で打ち切りに。新スタッフで「できるかな」が始まるが、実は最初の約1年はノッポさんは出演していない。「ノッポさんでなければ見ない」と幼稚園や保育所の先生たちから抗議が殺到し、呼び戻された。

── どうしてもお聞きしたいのは、最終回。言葉を発しないノッポさんがしゃべっちゃった理由です。

ノッポさん 最終リハーサルで、私が「自分の声でサヨウナラってやるさ」とスタッフに宣言すると、「えっ、やめて」「どうかしてるよ、ノッポさん」と悲鳴に似た声が上がりました。しかし、これも私の一言で消えました。「俺の声ってさ、こんなにいいんだぜ。みんなに聞かせてあげるのです」。

── 最後の収録は覚えていますか。

ノッポさん 収録前に今まで不要だったピンマイクを胸につけてもらいながら、上機嫌でいる私をスタッフは見てはならぬものを見せられているというようで、浮かない顔をしていたのをよく覚えています。

── そして、いよいよ最後の瞬間。

ノッポさん 「今まで長い間、ありがとう。それでは皆さん、サ・ヨ・ウ・ナ・ラァ──!! うわっ、しゃべっちゃった!!」。しゃべることのあってはならない番組では、この「しゃべっちゃった!!」は、私流のお別れを告げる言葉だったのです。

── 高見嘉明さんにとって、ノッポさんとは?

ノッポさん 「できるかな」が終わって28年。私であって、私でなかった「ノッポさん」と過ごしてきたように思えます。

── 最後にノッポさんを見て育った大きなおチビちゃんに一言。

ノッポさん 私は小さいひとが好きですから「あのね、このおじいさん、ここまで長く生きてきてさ、いろいろとあったんだよ。でね、君たちもこれからいろいろあると思うんだよ。でも、このおじいさんが見ているからさ、がんばってね。

 ●プロフィール●

たかみ・のっぽ

 1934年生まれ。本名・高見嘉明。67年から20年以上にわたりNHK教育テレビで放送された幼児向け教育番組「なにしてあそぼう」「できるかな」で、一言もしゃべらずに工作を生み出す「ノッポさん」を演じ続けた。また、「高見映」の名では、多数の放送台本、絵本、児童書、エッセイを執筆。現在も俳優、作家、歌手として幅広く活躍中。2006年に日本放送協会放送文化賞、児童文化功労賞受賞。近著に『夕暮れもとぼけて見れば朝まだき』。84歳。

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