国際・政治

“予防医療”路線の見直しで医療費抑制を 稲井英一郎

 増加傾向をたどる日本の医療費。推進してきた「予防医療」を見直す時が来ている。

鍵握るビッグデータの活用

 消費税収の2倍に相当する年間46.0兆円(2022年度、概算)を使う医療費。欧米先進国に比べまだ低い水準という識者もいるが、42年に日本の65歳以上の高齢者人口はピークを迎え、医療費は80兆円近くになると政府は予測する。

 医療費は、新型コロナウイルス禍での受診控えにより20年度は3.2%減ったが、GDP(国内総生産)比では8.02%と初めて8%台になり、コロナ禍が落ち着くとまた増え始めた。00年度にGDP比で5.61%だった医療費(約30兆円)は、GDPが数%しか増えない一方で、実質1.4倍に膨れ上がった(図1)。

次期衆院選の焦点にも

 膨張した背景には、高齢化に加え、医療技術の進歩で薬や治療のコストが増えたことがあり、高齢者医療の財政負担を余儀なくされる組合健保などの保険者は収支が悪化、公的医療保険制度は持続可能性に黄信号がともる。

 防衛費増や少子化対策に取り組む岸田文雄政権は歳出カットで財源を捻出するつもりだ。対する野党は、医療費にも無駄があるとの考えから、日本維新の会が医療費を数兆円削減できないか検討を始めた。同党の本気度によっては次の衆議院選挙の争点になり得る。

 この巨額の医療費に対して政府、特に厚生労働省はこの20年間、「予防医療」で医療費を抑制すると言い続けてきた。高齢者医療制度が創設された06年、政府は予防医療や患者自己負担増、診療報酬の見直しなどの適正化政策で、20年後の25年時点において7兆円の医療給付費(医療費から自己負担分を除いたもの)を削減すると大見えを切った(ちなみに患者負担も医療費なので、増やしたところで医療費の削減にはならない)。

 当時、経済財政諮問会議の民間委員からは名目GDPと連動させて医療費総額を管理する案が出たが、日本の実態に合わないとする厚労省はGDP指標案回避のため、いわゆる「メタボ健診」などの予防医療推進を打ち出した。

 7兆円削減案の中身は、生活習慣病対策で2兆円、平均在院日数短縮つまり長期入院の是正で4兆円、自己負担増などで1兆円とし、生活習慣病対策ではメタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)という概念を用い、生活習慣で病気になるのは自己責任と言い始め、特定健診や特定保健指導を保険者に義務づけるメタボ健診を08年度に始めた。当時、メタボは流行語になった。

 ちなみにメタボ健診で2兆円削減できる根拠について、財務省から厚労省に出向中だった医療費適正化担当者は、後に「『何らかの指標が必要』という小泉純一郎首相(当時)の言葉を受けて、仕方なく『えいやっ』と設定しただけの代物」と告白している(『医療崩壊の真犯人』村上正泰氏著)。予防医療は、健康な生活の上では大切でも、医療費抑制に効果がなく、長寿化で逆に医療費は増えるとみるのが医療経済学における国際常識だ。臨床疫学・経済学が専門の東京大の康永秀生教授は本誌19年5月14日号で「予防医療は短期的には医療費を少々削減することはあっても、長期的には医療費を抑制できず、逆に医療費を増大させる可能性がある」と指摘した。

含まれぬ薬剤コスト

 医療費を膨張させる主因の一つ、薬局調剤費にも無駄や効果の薄い部分があるといわれてきた。厚労省はジェネリック薬を推奨し、重複投薬・多剤投与・抗菌薬過剰投与の見直しを進めているが、政府が掲げる「成長戦略実行計画」(19年)で予防医療の説明に使った医療費のグラフは診療費のみで、薬剤コストは含めていない(図2)。薬の費用対効果に科学的にメスを入れる考えは今の政府にはないのだろう。なお、生活習慣病に悪性新生物(がん)を入れる政府の疾病分類も医療界の常識とは異なる。

 そもそも政府が示す医療費の将来予測はいつも過大だ。あと2年後となった25年度に医療費がいくらになるかの予測で、5年前の18年時点では約55兆円と推計していたが、実際は50兆円にも届くかどうか。精度の低い予測は、医療費削減効果を実態より大きく見せる意図ではなかろうが、これでは薬剤コストも含めて必要な医療費水準がいくらか判断できない。

解析を基に病院選びを

 こうした中、民間の組合健保は収支改善のため四苦八苦している。組合員に前期高齢者がいた場合、この保険給付を1万円でも減らせば、高齢者向け納付金をその何倍も減らせる制度があるため、診療単価の高い時間外受診などを極力しないよう加入者に呼びかける健保は多い。しかし、せっかく手元に患者のデータがあっても、大半の健保は統計解析ができず、効果の低い投薬や過剰な診察を見抜けないでいる。

 臨床情報が多い電子カルテのビッグデータを解析すれば、生活習慣病医療コストを可視化できることについて、筆者は本誌1月31日号で指摘した。研究を行ったのは東京のベンチャー企業「アライドメディカル」で、同社は10~20年単位で同じ患者を追跡できるビッグデータを日本で唯一保有する。同社の解析で、生活習慣病に高額の治療は不要と分かってきたが、今後、地域ごとの診療・調剤レセプトデータ(医師や薬局が保険者に請求する医療報酬明細)とカルテのビッグデータ同士を照らし合わせて分析すれば、高い医療費の請求傾向がある医療機関を浮き彫りにできるという。この解析を基に、患者が賢く病院を選べば、1万人が加入する健保なら少なくとも数千万円は支出を減らせるという。

 保険者はレセプトデータを必ず持っているので、データで費用対効果を解析し、それを患者に伝えれば、医療の質を落とさずに、生活習慣病の薬代や受診回数を減らすことができる。しかしこれを試みる保険者は日本では見当たらない。予防医療で医療費を適正化させようという政府の敷いた路線をやり続けるにしても、医療の無駄をデータで見抜く時代になったのだから、これをやらない手はない。

 であれば、政府も予防医療による適正化路線をそろそろ見直して保険者の後押しをすべきではないか。

(稲井英一郎・ジャーナリスト)


週刊エコノミスト2023年10月3日号掲載

「予防医療」路線の見直しを 鍵握るビッグデータの活用=稲井英一郎

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