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岸田政権 水俣病訴訟もまた控訴 繰り返される口先だけの「人間の尊厳」 ジャーナリスト・鈴木哲夫

岸田首相は国連本部で「人間の尊厳」を強調したが…
岸田首相は国連本部で「人間の尊厳」を強調したが…

 臨時国会が始まった。旧統一教会(現世界平和統一家庭連合)の解散命令請求や経済対策、衆院解散の有無に注目が集まる。だが、その陰で見過ごされている大きな政治課題がある。水俣病集団訴訟で国などに賠償を命じた判決を不服とし、岸田政権が控訴したことだ。

 岸田文雄首相は9月に国連本部で世界に向け、このように演説した。

「(主要7カ国の各種会議の議長国として)平和への切実な願い、助けを求める脆弱(ぜいじゃく)な人々の声に耳を傾けてきた。分断・対立ではなく、協調に向け、『人間の尊厳』に光を当てる」

「人間の尊厳」とは笑わせる。自分の国では罪もなく水俣病になった患者と争い続け、その救済を先送りするというのだから。

 大阪地裁は同月、水俣病被害者救済特別措置法に基づく救済策の対象外となった128人が、国と熊本県、当該企業のチッソに対し損害賠償を求めた訴訟で、原告全員を水俣病と認め、国などに1人当たり275万円の支払いを命じた。

 水俣病とは高度経済成長期の1956年に公式確認された公害だ。工場排水に混じったメチル水銀が海などに放出され、これらを取り込んだ魚介類を食べた人々に発生、さまざまな神経障害を引き起こした。国が原因をメチル水銀と認定したのは10年以上経た68年。その間に被害は広がった。

 一定程度の救済は図られてきたが、課題は未認定患者への対応だった。政府は95年に一時金1人当たり260万円の支払いなどを軸に政治決着を図った。だが、2004年の最高裁判決が従来の国の基準よりも範囲を広げて被害を認めた。そのため、未認定患者の救済が再び焦点になったのだ。

 政府は09年制定の特措法で新たな救済策をとったが、対象地域を熊本県や鹿児島県の海に面した一部地域などに限定するとした。そのため救済されない患者が残り、今回の裁判はこうした患者の救済を求めた。

 判決理由は明快で常識的だ。裁判長は「原告らの症状は水俣病以外に説明ができない」とした。その上で「水俣湾外の魚介類も相当程度メチル水銀に汚染され、長期間続いていたと推認される。また特措法の救済対象地域から外れた地域でも水銀摂取を推認するのが合理的」とした。原告の一人は「もう水俣病に政治や行政は終止符を打つ。そのきっかけにしてほしいという地裁判決だ」と言った。

 ところが、である。なんと国と熊本県、チッソは控訴した。水俣病は被害者には何の落ち度もない。行政は判決を受け入れ救済すればいい。なぜ控訴するのか。

「国家賠償裁判は原則、国は非を認めない。政府はその時々法律に基づいてきちんと行政を行っていたという立場だからだ。しかも非を認めると時の政府を否定することになる。中身じゃない。上訴ありきなんだ」(自民党閣僚経験者)

 原告の一人、前田芳枝さん(74)は10代のころ、鹿児島に住んでいた。国が線を引いた救済の対象地域の外側だった。手足がしびれ、ペンすらまともに握れない。9年前に水俣病と診断されたが、救済の網からこぼれた典型的な患者だ。

「国、熊本が控訴したことに怒り心頭です。原告は高齢となり、裁判中に亡くなった人もいます。死ぬのを待っているのかと思われてならない」(前田さん)

 控訴について環境相は取材に応じている。だが、岸田首相はまだ何も語っていない。あれだけ国連で高らかに語った「人間の尊厳」とは裏腹に、水俣病患者について言葉一つもない。

ニューヨークの国連本部
ニューヨークの国連本部

 ハンセン病は首相が「政治決断」

 岸田政権は4月の旧優生保護法に関する訴訟でも上訴した。本誌でも取り上げたが、旧優生保護法の下で不妊手術を強制されたと兵庫県の5人が訴えていた大阪高裁判決だ。5人は聴覚障害の2組の夫婦と先天性の脳性まひによる障害のある女性で、昭和30~40年代に不妊手術を強制され、子を産み育てる権利を奪われた。判決は原告の全面勝利。「特定の障害や疾患のある人を『不良』とみなし手術によって子どもを産み育てる意思決定の機会を奪うもので、極めて非人道的。憲法違反」とまで断じた。だが、国は最高裁に上告。判決に納得できないから争うと宣言した。

 国会で上告について岸田首相はこう答弁している。

「係争中の個別の訴訟については、それぞれの具体的事情も異なる。そのような観点から内容を精査したところ、除斥期間の法律上の解釈・適用に関して、いずれも旧優生保護法に係る本件事案にとどまらない法律上の重大な問題を含んでいること等から、上訴せざるを得ないとの判断に至ったものであります」

 官僚が用意した国賠訴訟の際の政府慣例を、ただ紙を読んで説明した。いくらでも政治決断できる。岸田首相はそれをやらない。

 かつて国による過剰な隔離や差別に、患者やその家族が苦しんだハンセン病(らい病)。国による非人道的な法律や隔離の構図は旧優生保護法と同じだ。元患者らは1998年に「らい予防法」は違憲として国家賠償を求め、2001年に熊本地裁で勝訴した。

 すると、当時の小泉純一郎首相は控訴断念し、元患者らに過去の国策の過ちを謝罪した。小泉首相の決断を官房副長官として見ていた安倍晋三元首相が19年、元患者の家族が受けた差別に関する国賠訴訟で国が敗れると、控訴を見送る。安倍派ベテランは「当時、当然小泉・安倍両首相に対し、厚生労働省や法務省の強い反対があった」と明かす。

 政治決断とは「こういうことだ」と、小泉氏の側近だった飯島勲元秘書官が私に話してくれたことがある。こうも語っていた。

「(小泉氏は)これはどう見ても国が間違っている、自分がここで止めなきゃ終わらない、と。人気取りと言う連中もいたが、この決断はそんなレベルの話じゃない。(霞が関の)役所の〝常に上訴する〟という慣例を打ち破った控訴断念が、どれだけの覚悟が必要だったか」

 水俣病や旧優生保護法の国賠訴訟。「人間の尊厳」とは何か。岸田首相がまず自らに厳しく問いかけるべきなのではないか。

すずき・てつお

 1958年生まれ。ジャーナリスト。テレビ西日本、フジテレビ政治部、日本BS放送報道局長などを経てフリー。豊富な政治家人脈で永田町の舞台裏を描く。テレビ・ラジオのコメンテーターとしても活躍。近著『戦争を知っている最後の政治家 中曽根康弘の言葉』『石破茂の「頭の中」』

「サンデー毎日11月5日号」表紙
「サンデー毎日11月5日号」表紙

 10月24日発売の「サンデー毎日11月5日号」には、ほかにも「始まった崩壊カウントダウン もう『年内解散』は無理 物価高無策で岸田首相はこうして辞任する!」「40代バツイチ女性婚活ルポ 激変!ニッポンの『恋愛』『結婚』」「中高年に大ブーム 『行楽登山』ここに気をつけろ!」などの記事も掲載しています。

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