帝国主義時代の植民地や戦場の悲惨と疫学の発展の関係を詳述 評者・藤好陽太郎
『帝国の疫病 植民地主義、奴隷制度、戦争は医学をどう変えたか』
著者 ジム・ダウンズ(米ゲティスバーグ大学教授) 訳者 仲達志
みすず書房 4950円
南アフリカの金とダイヤモンドの会社経営で巨富を築き、ケープ植民地首相となったセシル・ローズは、大英帝国の版図を広げた功績で本国や植民地にその銅像が建てられた。その遺産を使ったオックスフォード大学のローズ奨学金は、米元大統領のクリントンなど世界中のパワーエリートを輩出している。
しかし、その支配は統治された側には苦しみでしかない。偉人とされたローズの権威は失墜し、南ア最古の大学は銅像を撤去した。
本書は帝国を疫学という視点でとらえ直し、「大規模な侵犯行為」が疫学を発展させたことを明らかにしたほか、発展を支えながら歴史の闇に消えた植民地の個人を復権させた。
冒頭は米国に向かう船上で奴隷としての生よりも死を選ぶアフリカ人と、英国の医師がその死を英医学誌『ランセット』に投稿するところから始まる。凄絶(せいぜつ)な死と、人間の生存期間にだけ関心がある医師の目が対比的に描かれる。
そして植民地での医師の活躍と、ロンドンの官僚機構の情報収集という帝国の仕組みが疫学を発展させたことを明らかにする。例えば後年ロンドン疫学会会長を務めた英国人医師ミルロイはジャマイカで報告書に「コレラは、公衆衛生の怠慢を決して見逃さない審問官であると同時に、それに対する最も恐るべき復讐(ふくしゅう)者でもある」と明記した。
医師の報告書や日誌からは流行病に対する「不安感」や「恐怖」が浮かび上がる。それでもミルロイは「単なる怠慢のせいで人々が見殺しにされないようにす」べきと戒め、世界からの報告書を植民地に送るよう本国に要請した。
公衆衛生への貢献ではナイチンゲールの存在も欠かせない。彼女は「クリミア戦争に従軍した『ランプを持つ貴婦人』として」知られるが、実際は戦死者より病死者が多かったことを統計で明示した。公衆衛生や疾病予防策に取り組み、不潔極まる野戦病院のみならず、本国の病院の土木工学的手法の開発まで行っている。
植民地の個人や奴隷を貴重な証言者としてよみがえらせたのも本書の真骨頂である。洗濯婦らは「注意深い観察眼を有する目撃者」であり、誰がどんな順番でどのように死んだのかを正確に伝えた。それは「科学的知見として体系化され」、疫学的な手法の構築に役立てられたという。
帝国の仕組みと医師、現地の証言者らにより医学は変貌を遂げた。温暖化や都市化の進展で今後の新興感染症も懸念される中、読んでおきたい一冊である。
(藤好陽太郎・追手門学院大学教授)
Jim Downs ゲティスバーグ大学歴史学教授。アメリカ史を専攻し、医学と公衆衛生の歴史を研究している。本書が3冊目の著作となる。
週刊エコノミスト2024年5月14・21日合併号掲載
『帝国の疫病 植民地主義、奴隷制度、戦争は医学をどう変えたか』 評者・藤好陽太郎