公的医療保険が貧弱な中国で進む民間デジタル保険の進化と限界 評者・井堀利宏
『十四億人の安寧 デジタル国家中国の社会保障戦略』
著者 片山ゆき(ニッセイ基礎研究所主任研究員) 慶応義塾大学出版会 3300円
かたやま・ゆき
愛媛大学法文学部文学科(中国文学専攻)卒業後、北京師範大学、中国人民大学へ留学。2003年、中国日本商会からJETRO北京センターへの出向を経て05年にニッセイ基礎研究所に入所。共著に『習近平の中国』など。
中国では2022年に人口減少が始まった。急速に少子高齢化社会を迎え、経済成長も鈍化するという厳しい環境にある。本書は、主として医療を対象に中国の社会保障制度の変容を丁寧に描写している。
経済成長を重視してきた中国では社会保障制度の整備が遅れ、00年代に入ってようやく国民全体をカバーする医療保険が構築された。しかし、給付水準は基礎的なものにとどまり、高齢化で増大している社会保障費をさらに充実させる財政的余裕はない。日本や欧州と比較すると、医療保障の多くを民間市場の私的保険が担っており、企業やNPO(非営利組織)、家族、共同体などさまざまなリスク保障主体が多層化している。
中でも、デジタル化が社会全体で急速に進展している中国では、医療保険でも民間企業のデジタル対応が顕著である。新型コロナウイルス禍を経験して、今後もその役割は増加するだろう。
ただし、中央政府や地方政府の不透明・恣意(しい)的な監視や規制の弊害もあって、民間保険市場の機能は十分に活用されておらず、官民連携が円滑に進展しているわけでもない。
例えば、アリババなどデジタル企業が提供するオンライン上での相互扶助スキーム「ネット互助プラン」は10年代に急速に普及したが、20年代に入って当局の規制強化や給付の増大に伴う負担増への不安などから加入者が急減し、21〜22年に閉鎖に追い込まれた。本書では、アンケート調査などを用いて、「ネット互助プラン」の誕生とその普及、そして閉鎖に追い込まれた事情を分析して、民間医療保険の功罪を検証している。
デジタル化で個人のリスク情報をきめ細かく収集できると、私的保険ではそうしたリスクに応じて差別化された受給プランが可能となるため、リスクの異なる個人間での再分配効果は期待できない。公的保険が貧弱な中国で、運営効率の向上などデジタル化を活用するメリットは大きいが、民間保険の限界にも留意する必要がある。
日本では保険証をマイナンバーカードに代替させるなど、医療保険でのデジタル化が徐々に進行中である。一方で、この分野での中国の進展はダイナミックであり、日本の医療保険制度改革を議論する上でも、本書の知見は大変参考になる。本書は中国の社会保障制度を従来の福祉国家論で評価するのではなく、整備が遅れたことでむしろ民間保険を活用せざるを得ないという「民の視点」で解説しており、この分野での貴重な貢献である。
(井堀利宏・政策研究大学院大学名誉教授)
週刊エコノミスト2024年11月26日号掲載
『十四億人の安寧 デジタル国家中国の社会保障戦略』 評者・井堀利宏