週刊エコノミスト Online サンデー毎日
シリーズ 能登に生きる 木工製品を制作する木地師の挑戦
自給自足の先にある〝百姓〟としての未来
能登地方を襲った地震から1年が経つ。壊滅的な打撃を被りながらも、以前の生活を取り戻すべく復興に力を注ぐ人々がいる。震災後、能登に暮らす人々は何を感じ、何を思うのか。能登に生きる人々のリアルをお伝えする不定期連載の第1回は、10年前に移住したある木地師の「いま」の姿をお届けする。
▼海の目の前という環境と、町の人の温かさが決め手で移住を決意
▼震災は大きな試練だったが、自給自足を実践するという夢を明確にした
▼多岐にわたる技術を身につけ家族とともに生き抜く力を養いたい
能登の地で見つけた〝終(つい)の棲家(すみか)〟
――木地師(きじし)のお仕事についてお聞かせください。
木地師とは、ろくろを使って椀(わん)や盆、盃などの日用木工品を加工・製造する職人のことです。現在、制作した木地は輪島や京都、東京などに卸しています。
能登では若い木地師が少なく、地震で離れていった方も多いので、被災後に戻ってきた自分は「よく帰ってきてくれたね」と言われることも少なくありません。この仕事を次世代に繫(つな)いでいかなければ、という責任も強く感じています。また、木地の制作から漆(うるし)の塗りまで一貫して行う自身の作品創りも行っています。
――志賀町(しかまち)に移住したきっかけは。
志賀町に移住したのは2015年です。もともと全国どこでもいいから自分たち夫婦に合う場所を探そうと思っていましたが、日本全国を探すのは途方もないことだと気付いて(笑)。大学時代によく遊びに行っていた能登を回ることにしました。
能登町や珠洲、七尾などを3年かけて探しまわって、最後に出会ったのが志賀町です。たまたま入った商店で出会った方から紹介してもらった家に一目惚れし、即決でした。海の目の前という環境と、町の人の温かさが決め手でしたね。初対面で「住む家を探している」なんていう自分たちに親切にしてくれた近所の方たちを好きになったんです。
古民家は自分たちで工夫しながらDIYし、元々あった蔵を工房にして、自給自足の生活を目指しました。
町で挙げた結婚式の様子(地元の伝統的な「縄張(なわは)り」)が町報誌の表紙を飾ったことで、知らない人からも「おー田中さん!」と声をかけられるようになりました(笑)。お陰で地域に溶け込むのは早かったんじゃないでしょうか。
震災がもたらした新たな決意
――地震発生後、京丹後へ移り住んでいた田中さん一家。志賀町に戻られた理由を教えてください。
令和6年能登半島地震で家が全壊判定を受け、家族全員で京都府の丹後に避難していました。そのまま向こうに住む選択肢もありましたが、子どもたちが「志賀町に帰りたい」と言ってくれたことが能登に戻ろうという気持ちを後押ししてくれました。
震災は大きな試練であった一方で、志賀町を拠点に自給自足を実践するという夢を明確にする契機にもなりました。畑で穫(と)れた野菜や山の幸、海の幸を家族で楽しむ、それが何よりの贅沢(ぜいたく)です
――自給自足の暮らしを目指すきっかけがあったのでしょうか。
漠然と、今の日本でどう生き抜くかを考え続けてきました。志賀町の自然豊かな環境は、自給自足の理想を追求する上で最適な場所だと感じています。狩猟免許や船舶免許も取得したので、電気工事士の資格なんかも取れたらいいなと思っています。家族で住む場所、家族が食べるものくらいは、すべて自分たちで賄うことが理想ですね。
開拓しがいのある山、海、田んぼなどが揃(そろ)っているこの土地で、自分で手を動かしながらわくわくするような生活を作りたいです。
――今やりたいことはなんですか?
かねて掲げていた自給自足の生活を目標にして狩猟と船、田んぼの準備をしています。同時に、災害時に対応できるような水道や電気に頼らないオフグリッドの家も建てる予定です。有事の際はうちを拠点に集落の人が集まれるような、みんなの助けになれるような場所をつくりたいんです。
震災が起きたからこそ今までやろうと思って考えていたことは間違いじゃなかったと思えたし、僕らが目指していたものはこれでよかったんだと思えた。地震はたまたまだけど、大きなきっかけになったことは間違いないです。
志賀町としてもオフグリッドに力を入れていく構想はあるようなので、モデルケースになって災害に強い町になる第一歩を自分たちの足で踏み出したい。若者が移住してくれるような強い町を一からつくっていきたい。志賀町に帰ってきたからには、ヤル気満々です(笑)。
――木地師としての使命と新たな挑戦についてお聞かせください。
震災後に解体されていっている家の大黒柱などを使ったお椀作りを考えています。解体されてしまう家の材料を活(い)かしてお椀や器を作れたら、その家の記憶を形に残すことができる。地震で解体せざるを得なくなった家が数え切れないほどあって、寂しがってる人をたくさん見てきたからこそ、自分にできることはなんだろうと考えました。
生まれ育った家の木材から、ひと家族分くらいのお椀セットなんかを作れたら喜んでくれるんじゃないかなと。近所でよく遊びに行ったり一緒にごはんを食べていたおじいちゃんの家が解体されてしまうので、まずはそこで形にするつもりです。なにもしなければ全部ゴミになってしまうものを形で残したいですね。
――田中さんが目指す未来とは。
何でもできる〝百姓〟になりたいです。木地師としての自分はもちろん、狩猟や農業、漆の仕事など、多岐にわたる技術を身につけながら家族とともに生き抜く力を養いたい。今年4月には東京・麻布での展覧会も予定しているため、自身の作品創りにも力を入れています。
(ライター・矢島まどか)
田中俊也(たなか・しゅんや)
「木漆工をき」代表。1986年大阪府出身。金沢美術工芸大学で漆・木工を専攻。アート作品制作を経て、石川県挽物轆轤(ひきものろくろ)技術研修所で5年間修業を積む。2015年、能登半島にある志賀町に移住し木地師として独立し、漆器の木地制作を手掛けている
やじま・まどか
1992年、埼玉県生まれ。フリーライター。不動産業界に6年ほど身を置く。2023年より東京と石川の二拠点で生活し、現在は能登半島で古民家宿の管理人を務める。地酒に目が無い