本が受け継ぐ「精神のリレー」=黒沢正俊
編集者の悪い癖で、本を手にして最初にめくるページは、巻末の参考文献だ。自分が編集した本があるかどうかを確認する。斉藤誠『〈危機の領域〉』には、ジョン・スチュアート・ミル『自由論』とアデア・ターナー『債務、さもなくば悪魔』が、永野健二『経営者』には、ヨーゼフ・シュンペーター『資本主義、社会主義、民主主義』と細野祐二『粉飾決算vs会計基準』が載っていた。
ミルとシュンペーターは私が2008年から独りで編集している古典新訳シリーズに入っているもので、とりわけミルの訳はお世話になった故山岡洋一氏の手になるものだけに思い出深い作品だ。こうして1冊の本が時を経て新たな著者の手で生かされていく。かつて『死霊』を書いた作家の埴谷雄高はこうした関係を後世にバトンをつなぐ「精神のリレー」と呼んだ。
さて、本題。選んだ3冊は、どの本もまず文章に奥行きがある。そして、読んでいると、説明できない〈サムシング〉が漂ってくる。それは多分、著者たちの想いであり、覚悟だ。
『〈危機の領域〉』には、東日本大震災と福島原発事故の膨大な資料を読み解いて原発事故時の危機対応と復興計画の失敗を分析した『原発危機の経済学』と『震災復興の政治経済学』(ともに日本評論社)という2冊が先行する。その蓄積をより深く掘り進めた成果だ。
豊洲市場地下汚染水問題、世界金融危機、日本の財政危機を分析の対象にして、経済学者として時流に染まらない物事の見方を提示している。
安倍晋三首相は記者会見などで「この道しかありません」と繰り返すが、実は十分な議論を尽くしていない。それと対比して、ロバート・フロストの詩「行かなかった道」を引用し、一方の道を選択した機会費用の重みに言及している。
楕円形の経営
『経営者』に先行するのは、ベストセラーにもなった『バブル 日本迷走の原点』(新潮社)である。マーケットの動きを見る証券部記者、あるいはビジネス雑誌の編集長として出会った経営者を見る眼は深い。
著者が渋沢栄一『論語と算盤』の思想を軸とした渋沢資本主義の継承者として日立クレジット社長、会長だった花房正義氏の「楕円の思想」を取り上げているのは炯眼(けいがん)だと思う。「理念と財務諸表」という二つの中心(焦点)を持つ楕円形の経営のことだ。その花房氏がかつて師事したのが一橋大学教授だった山城章氏(故人)。「武道や芸術と同じように経営にも『道』がある」という言葉を残している。
品質偽装など大企業の不祥事、不正事件が相次ぐなか、藤原定家、兼好法師から荻生徂徠、本居宣長まで12人の先達から日本人の美意識のあり方を学び、それを経営に生かすべきだと説く『藝術経営のすゝめ』は一見、反時代的なようだが、意外にも時代にマッチしている。その証拠に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか』(山口周著、光文社新書)という本がよく読まれている。
温故知新、教養、芸術の時代。古典を読もうぜ。
(黒沢正俊・日経BP社)
■人物略歴
くろさわ・まさとし
◆経済古典を新訳で
1953年生まれ。78年毎日新聞社入社。エコノミスト編集部にも在籍。92年より日経BP社。『日経ビジネス』編集部を経て、97年より書籍編集。いま読むべき古典を新訳で届ける「日経BPクラシックス」シリーズを立ち上げる。ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』、カール・シュミット『陸と海 世界史的な考察』(8月刊行)など22作を数える。直近の担当書に、『「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明』(伊神満著)など。