教養・歴史特集

AI時代の教育論 非認知能力で変わる人間の力=中室牧子

(Bloomberg)
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 近年、経済学では「非認知能力」と呼ばれるものに注目が集まっている。

 例えば、やり抜く力、自制心、協調性、外向性などの気質のことで、IQ(知能指数)や学力テストで計測される「認知能力」とは区別して用いられる。

 実は、この非認知能力なるものは従来、心理学で「社会情緒的スキル」と呼ばれ、長く研究の対象になってきたため、決して新しい概念ではない。しかし、近年の経済学が非認知能力に注目するようになったのは、学校を卒業した後の労働市場での成果(例えば、就業や賃金、昇進、生産性など)に影響を与えていることを明らかにする研究が出てきたからだ。

 私は、AI(人工知能)時代の教育に求められることは、この非認知能力を育む「環境」を作るということにあるのではないかと思う。

図1 子供の頃の自制心が高い人ほど健康で所得は高い
図1 子供の頃の自制心が高い人ほど健康で所得は高い

所得が伸びる

 勉強して偏差値の高い学校へ行くことは、人生の成功につながる──。こう信じている人も多いはずだ。これまで、とかくIQや学力テストで計測される「認知能力」の重要性を訴える人は多かった。

 一方で、私たちは学校を卒業して働き始めると、勉強ができるだけでは通用しないことも知るようになる。やり抜く力、自制心、協調性、外向性などが仕事の成果に影響していると感じる人も少なくないだろう。ノーベル経済学賞を受賞した米シカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授はこうした非認知能力が賃金に与える影響についての優れた研究をいくつも発表している。

 例えば、同じ程度の学力を持つ高卒者と高卒認定試験合格者を比較してみると、高卒者の方がその後の収入や雇用の面で有利になっていることが示されている。このため、ヘックマン教授は「IQや学力テストだけでは学校卒業後の収入や雇用の状況を予測するには十分ではなく、非認知能力も重要である」と述べている。

 ヘックマン教授は、高卒者と高卒認定試験の合格者では、高卒者の非認知能力の獲得量が高いことを理由に、「非認知能力は勉強のように自分一人で身に着けることは難しく、環境に影響を受けるのではないか」と指摘している。「読み・書き・そろばん」なら、机に座って一人で習得できるだろうが、やり抜く力、自制心、協調性、外向性はやはり周囲の人から学ぶことが多いということは想像に難くない。

 また、近年の研究は、非認知能力が長期にわたって影響することを示すものも多い。例えば、ニュージーランドで行われた、1000人の子供を32年間追跡した大規模な調査によれば、子供の頃に自制心が高かった人ほど、健康状況の悪さを示す変数は低くなる一方、所得は高くなることが分かっている(図1)。

 この研究では、同じ家庭の中で育った兄弟姉妹の中で自制心が高かった子供と低かった子供を比較し、自制心の高い子ほど健康状態や経済的な状況が良いという同様の結果が確認されているので、遺伝や家庭環境の問題ではないということも言えるだろう。

背筋伸ばすと成績向上

 実は、非認知能力はそもそも、教育によって伸ばすことができる「可鍛(かたん)性」があるのか、そうであるならどのように伸ばすことができるかなどについて、まだまだ研究が行われているところである。一つの研究を紹介しよう。

 米国の69の大学で大学生を対象に行われた実験では、先生に「背筋を伸ばせ」と言われ続け、それを忠実に実行した学生は成績の向上が見られたことが報告されている。これは、背筋を伸ばしたことが直接影響を与えたのではなく、「背筋を伸ばす」ということのように、意識しないとできづらいことを継続的に行ったことで、学生の自制心が鍛えられ、成績に良い影響を及ぼしたと考えられている。

 これ以外にも、「細かく計画を立て、記録し、達成度を自分で管理する」ことが自制心を鍛えるのに有効だという研究もある。7歳から10歳の算数が苦手な40人の子供を対象に行った研究によると、7課程42ページ分の算数の課題について、設定した目標を達成できたかどうかなどの成果を1課程6ページ分ごとに7回に分けて記録させたグループと、7課程分の成果をまとめて1回だけ記録したグループでは、前者の方がその後の成績が良かった。二つのグループが解いた問題数は全く同じだったにもかかわらず、細かく成果を記録することで前者の方が自制心が鍛えられ、後者よりも短い勉強時間で成果を上げることができた。

 かつて「レコーディングダイエット」と言われる減量方法が流行したことがあるが、このダイエットで減量に成功した人が多かったのは「食事やカロリーを記録し、体重を確認する」という行為が自制心を鍛えたからではないだろうか。

図2 AIにはない非認知能力の重要性が増している(編集部作成)
図2 AIにはない非認知能力の重要性が増している(編集部作成)

人間は「先回り」が可能

 とはいえ、AIのようなテクノロジーはいやが応にも教育を変えていくだろう。

 一つのクラスに学力層の異なる生徒がいる場合、教員が全ての子供の習熟にあった指導をすることは難しい。多くの場合、一番層の厚い中間層を対象にした授業や指導を行うことになるだろうが、こうした指導が、特に学力が高い生徒や低い生徒にとって不利になることを示した研究は多い。

 このような場合は、過去の学習履歴に基づいて、IT技術を活用して習熟度に合わせた問題を提示してくれる「アダプティブラーニング(適応学習)」のような方法は多くのメリットがある。おそらくこれからは、個々の生徒の習熟や個性に合わせた「テーラーメード型」の教育にシフトしていくものと思われる。

 しかし、技術に多くのものを求めすぎることは望ましくない。近年、カナダのトロント大学で行われた大規模な実験に「コーチング」の効果を明らかにしたものがある。コーチングとは、スポーツの「コーチ」と同じ語源で、技術や学習の指導だけでなく、目標の設定やスケジュール管理、モチベーションを維持するような声かけなどをする。

 研究では、大学生に1対1で人がコーチングを行うグループと、人間がコーチングを行うのと同じ頻度でテキストメッセージがメールで送られるグループをランダムに振り分け、その後の成績を比較した。結果は、1対1でコーチングを行ったグループの方が、期末試験の偏差値が0・3高かったことが報告されている。

 また、トロントの公営住宅で経済的に困窮している低学力の中学3年生を対象に行われた実験では、1対1のコーチングが行われたことによって、高校卒業率と大学などへの進学率が飛躍的に上昇したことが示されている。特に学力が低い層への手厚い、きめ細やかな対人のコーチングは、大きな効果が認められる可能性が高い。

 テキストメッセージではだめで、人がコーチングをしなければうまくいかなかった理由は何なのだろうか。この論文では、「先回りした」行動が取れないことを一つの理由に挙げている。人間が対面でコミュニケーションを取ると、ほんの少しの表情や声のトーンでも相手の心情の変化に気づくことがある。こうした「気づき」は、先回りしたサポートやフォローにつながる。これはやはり人間のなせる業というものだろう。

 AIに何ができて、何ができないのか。これを知ることは、裏返してみれば、人間に何ができて、何ができないのかを考える機会になる。教育において、人による指導と技術の活用のベストミックスについての知見を蓄積することが求められている。

(中室牧子・慶応義塾大学総合政策学部准教授)

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