銀鱗文庫の留守番役は元ファッション・エディター 福地享子=築地魚市場銀鱗会事務局長 問答有用/723
編集者として、ワインや五つ星ホテルなどの取材で海外を飛び回っていたが、チラシづくりを手伝ったのを契機に、築地市場の仲卸業「濱長」で働き始めた。そこで市場の図書室「銀鱗(ぎんりん)文庫」に出会う。
(聞き手=下桐実雅子・編集部)
「図書室を次世代に残すことが私たちの役目」
「築地の建物は消えるけれど、豊洲に移った後も取引風景や人情の厚さは変わらない」
── 東京都中央区の築地市場にあった図書室「銀鱗文庫」が10月27日、移転先の豊洲市場に新装オープンしました。
福地 新しい図書室は一から設計してもらったのですが、設計を巡って今年3月から2カ月ぐらい毎朝、大工さんと電話で怒鳴り合いしていました(笑)。最初の設計とはだいぶ変わって、本の大きさに合わせて棚を修正したり、広く見えるように本棚を減らしたりしました。
── 築地から持ち込んだ書棚もあるのですか。
福地 はい。築地の銀鱗文庫は1962年に開館したのですが、当時からの書棚もあります。格好良く修復されていますが、元はボロボロでした。最初は、銀鱗文庫をこんなに奇麗につくる発想はありませんでした。引っ越し用にためていたお金で、移転先の事務室あたりに本箱をいくつか置けばいいやと思っていたんですよ。
ところが、2016年に移転計画が延期になりました。その間に図書関係者と話す機会があって、先輩たちが思い入れを持ってつくった図書室を、きちんとした形で次世代に残していくことが私たちの役目ではないかと強く考えるようになりました。
── スムーズにいったのですか。
福地 銀鱗文庫を運営する「銀鱗会」は築地市場の文化団体で、会員の仲卸業者らの会費で成り立っています。資金に余裕がないので、銀鱗会の役員の中には反対する人も多くいました。寄付を募ろうと提案しても、「市場の図書室ごときにお金を出してくれる人はいない」という意見がたくさんありました。
でも、私は自腹を切ってもいいと思っていましたので、ごり押しでやっちゃった。目標は350万円。どうしたら、広く寄付を集められるかと考えて、寄付すると瓦に記名ができるお寺の「瓦寄進」を参考に、「書棚寄進」を思い付きました。「文庫の命である書棚を、皆さん寄付してください」という呼びかけです。ただし、寄付の金額は切りのいい1口1万円。私一人で会計を担当していて、集計が大変ですから。
築地市場の正式開場は1935年。関東大震災(23年)で壊滅した日本橋の魚河岸が、築地海軍省の跡地に移って臨時市場で営業したのが始まりだった。銀鱗文庫は、飲食店や物販店がひしめく「魚がし横町」の2階にあった。古い建物の一室で、朝、窓を開けるとカレーや天ぷらの香りが立ちこめた。蔵書は市場や食文化の本など約5000冊をそろえ、市場の昔の印刷物など生の資料も残していた。
豊洲に移転後、部屋の大きさは半分の約30平方メートルになり、蔵書の数も減らしたが、飲食店と同じフロアで人通りも多い場所だ。一般の人にも無料開放しており、ふらりと立ち寄って魚の本を手に取ったり、絵はがきを買い求めたりする観光客の姿も珍しくない。
── 寄付は集まったのですか。
福地 今年6月、市場で募り始めたら、「勝手に設計を決めて、金をくれというのは間違っている」とすごまれたこともありましたが、「市場の資料を残すことは大切だ」と理解を示す仲卸業者も多かった。10万円を出してくれる人もいました。テレビや新聞で取り上げられてからは一般の人の協力もあって、今年10月に目標額に達しました。
書棚に寄付者の名を残す
── 書棚に寄付した人の名前を刻んだとか。
福地 落ちないように、油性マジックでしっかり残しています。今日も青森の市場の人から、「そちらに行く用事があるので、寄付金を持っていきます」というメールが来ました。皆さんの温かい気持ちを感じました。築地市場のみんなが引っ越しだったので、「うちにこういう資料が出てきたから要らない?」と連絡があり、それぞれの倉庫に眠っている古い資料を提供してくれました。欲しかった本も新たに加わりました。
── 市場に図書室があるなんて、意外ですね。
福地 昔は本が高かったからね。銀鱗会の前身は市場の青年会だったのですが、筆が立つ人が多くて、立派な機関誌「銀鱗」を出していました。市場のことを勉強したいから図書室がほしいという希望が青年会からずっとあって、銀鱗会の創立10周年の記念に開設されました。
魚関係の本はもちろんですが、当時はベストセラーの本や文学全集もありました。三島由紀夫とかね。お金もあったので、出入りの本屋が月2回ぐらい、新刊本を持ってくる。ところが時がたって平成に入ると、本はあまり読まれなくなり、図書室を訪れる人も少なくなっています。
福地さんは大学卒業後、婦人画報社に入社。20代で結婚後、フリーランスの編集者に。ロングセラー本『向田邦子の手料理』(1989年)の編集も手がけた。バブル時代には、フランス・ロワールの古城巡りや1000万円のダイヤの工房を取材したりと、華やかで忙しい毎日を送っていた。しかし、料理とのかかわりがきっかけで、築地市場の水産仲卸「濱長」の門をたたくことになる。
── どうして河岸の世界に。
福地 編集者だった当時、シェフの料理本を何冊も手がけていたところ、イタリア料理のシェフ、落合務さんから、仕入れている魚屋の社長が「他の料理人にアピールできるようなチラシをつくりたがっているので手伝ってほしい」と相談されたのが最初です。面白そうだし気軽にやり始めました。プロの料理人のためにお薦め魚のことを書くのに、「この魚はなんていう名前なんですか?」と聞きながら、魚図鑑を片手にチラシをつくっていたんです。こんな調子でしたので、さすがに罪悪感があり、もう少し魚の勉強をしたいと「濱長」に「働かせてください」とお願いしました。
「宇宙人」と呼ばれて
── どんな仕事をしていたのですか。
福地 40歳を過ぎていましたが、アルバイト社員になりました。包丁を買ってゴム長靴を履いて。ゼロから魚のさばき方などを教えてくれるだろうと思っていたら、いきなり「魚をおろしてみろ」と言われ、「へっ?」という感じでした。何も知らないので、「宇宙人」と呼ばれていました。それでも、カツオをおろすのが得意になっちゃって、4年目になると、売り場デビューできました。お客に魚を薦める仕事です。
お客さんはみんな親切で、いろいろ教えてくれました。すし屋のご主人は、うちで買ったコハダやアナゴを翌朝、「食べてみな」って、握って持ってきてくれた。まあ、そのおすしのおいしかったこと。私もずうずうしいから、「煮付けをおいしくつくる方法を教えてください」とか、「アジを買ったけれど、どうやってしめたらおいしい?」とか聞いて、プロから伝授してもらいました。
河岸の仕事が性に合っていたんでしょうね。「ばかやろう」とか怒鳴られても意に介さずやれる人と、そうでない人がいる。本音の世界ですからね。
── 海外取材など華やかな生活を失うことを惜しいと思わなかったですか。
福地 ロワールの古城巡りも、五つ星ホテル巡りも、あくまで取材であって私の生活ではない。むしろ、河岸の仕事をすることによって、取材者として原稿をまとめるのではなく、「私」という立場で原稿を書けるようになりました。原稿料は少ないけれど、自分で見た正直なことを書けるのは、ずっと楽しかったです。
築地は全然知らない世界で、とても新鮮でした。フリーランスの時は、戦闘服だと思っていたので、ブランドものの服で身を固めていましたが、市場ではそんなことを気にしなくていい。どれだけ安く作業服を買って、どんなふうに着ようかと楽しんでいました。帳場は当時、女性の仕事でしたから、劇団をやりながら働いている女性もいましたよ。フリーランスのころから収入は10分の1に減りましたが、しっかり蓄えていたので収入面の不安はありませんでした。
── 銀鱗文庫を知ったきっかけは。
福地 私が銀鱗文庫に足を踏み入れたのは、2000年前後のこと。市場で働いていた私にとっては、天国のような場所でした。冬、ふきっさらしの中で働いていると体は冷え切っていて、温かい銀鱗文庫は癒やしの場所でしたから。もともと歴史が好きで、築地の前は日本橋に魚河岸があったのですが、日本橋魚河岸のことを知るのは新鮮でした。江戸時代の社会全体の仕組みを学ぶことにもつながるので、それがとてもとても面白くて。神田の古本屋街を歩いて本を探したりしていましたが、その本が銀鱗文庫にあることを発見しました。
濱長で働きながら料理雑誌に連載を持ち、魚河岸での修業の日々をつづった本も出版した。2010年、銀鱗文庫の留守番役の女性が退職し、後任が見つからないまま半年が過ぎた。誰もいないと、図書室は荒れてくる。酒瓶が転がっていることもあった。見過ごせず、同年、濱長を退職して銀鱗会の事務局長に就き、銀鱗文庫の留守番役に手を挙げた。
捨てられる資料を収集
── 16年には、魚河岸400年の歴史を未公開写真などでまとめた『築地市場クロニクル 1603-2016』(朝日新聞出版)を出版しました。
福地 14年に豊洲市場の起工式があり、移転の現実が迫ってきました。目の前にある築地の風景が永遠になくなると思うと、涙ぐんだり、胸がえぐられる思いでした。20年ぐらい築地で暮らしてきましたから、きちんと系統立てて記録に残したいと考えました。市場の人たちは古い写真をそんなに大切にしなかったので、捨てようとしていると「私にください」って。市場の中には開かずの倉庫があり、カビが生えそうな写真が箱の中にごそっとあったりしたんですよ。持ち主も分からないから、「私が預かる」という感じで拾ってきて、現在は銀鱗会で保管しています。
銀鱗文庫の書棚にも、日本橋魚河岸が解散する時の魚商人の組合の名簿だとか、日本橋から築地に移った時の日誌がありますが、ある倉庫を解体する時に捨てられそうになった資料です。「なんでこんなところを撮影するの?」と言われながら、市場のあちこちの写真も撮ったりしていました。16年の8月のことです。小池百合子都知事が移転延期を発表し、とても驚きました。
二転三転した築地市場の移転だったが、都は17年12月、豊洲市場の開場日を18年10月と決定し、ついに最後の時が迫る。福地さんは再び『築地市場クロニクル完全版 1603-2018』(同)を18年7月、出版した。前書きには「惚(ほ)れぬいたカレシみたいな築地市場に、この本を捧(ささ)げたい」と記した。
── 移転してきてどうですか。
福地 築地の建物は完全に消えるけれど、中身は変わらないことに気づきました。魚の取引の風景や行事はそのまま豊洲に移る。仲卸の売り場の人たちも同じ顔ぶれ。店は減りましたけれど、通路が魚の箱で埋まっているのも築地と同じです。すぐに慣れました。
── 市場の移転についてはどう考えていますか。
福地 築80年以上で、施設は限界だったので仕方ないとしても、東京都の都市計画全体としてみると、豊洲に市場が移転したのは失敗だったかもしれません。豊洲は市場よりも、別に有効活用できる道があったような気がします。そもそも、人口減少や魚食が減っているため、市場の取扱量も今後減っていくと言われていますからね。
── 図書室も無事に移転して一安心ですか。
福地 私の後継者を、今のうちから見つけておかなければなりません。河岸の空気も知ってもらわないといけないですし、いろいろな仕事があります。2カ月に1度の会費集めは、仲卸のところを回ります。そこで雑談して情報収集もします。それからブログの原稿を書いたり、図書室で絵の展示を企画したり。企業の賛助会員を募ったりもします。そういう仕事を楽しいと思ってやってくれる人じゃないとね。
銀鱗会の会員が減って収入も減っているので、図書室を守っていくためにも、収入を増やすことが残された仕事です。軌道に乗ってくれば、まとまった休みを取って長期の旅行に行きたいな。本を書きたいという気持ちもありますが、中身はまだ秘密です。
●プロフィール●
ふくち・きょうこ
宮崎県生まれ。日本女子大学卒業。婦人画報社(現ハースト婦人画報社)の編集者を経て、ファッション誌や料理本などを手がけるフリーランスに。1998年、築地市場の水産仲卸「濱長」で働き始め、2010年、築地市場の文化団体「築地魚市場銀鱗会」事務局長。著書に『築地魚河岸寿司ダネ手帖』『あいうえ築地の河岸ことば』『築地市場クロニクル完全版1603-2018』など。